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タイトルの言葉は『歎異抄』第6条の一節ですが、ここでは人の「縁」について触れています。
第6条における背景はこうです。
親鸞聖人の弟子に信楽房(しんぎょうぼう)という人がいたのですが、この人が、どういうわけかある日師匠の親鸞を見限って他の坊さんの弟子になってしまいました。当時は、弟子が途中で師匠をとりかえるケースが結構あったようです。
ところで信楽房という人は、それまで師匠の親鸞さんからは非常にかわいがられていたとみえて、たとえば聖人が直筆で書いた「南無阿弥陀仏」の六字の名号とか、あるいは聖人直筆の手紙とか、あるいは浄土三部経の解説書だとかをいっぱい持っていました。
ところがその信楽房が聖人のもとを去る際に、これら御真筆を諸々携えて出て行ってしまったわけです。そこで聖人の他の弟子たちが憤慨し、
「先生、あれらを取り返しましょう。あの野郎は先生を裏切って出て行ったんだから、御真筆などを預けておくことはありませんよ。取り返しましょう。」と言った。
そのときに親鸞聖人が答えた言葉とされるのが、この第6条なのです。
そこで親鸞は何と言ったか。
念仏をもっぱら行じている仲間のなかで、これは私の弟子だ、あれはひとの弟子だなどという論争があちこちで起きているが、それはとんでもないことである。
私には弟子など一人もいない。
私の力で人に念仏をさせているのであれば、その人は私の弟子だということにもなるかもしれない。
しかし自分の力で人に念仏をさせるなどということは、できることではないのだ。
私の教えを受けて念仏を唱えている人がいるとしても、それは私の教えを受けたからではなしに、阿弥陀如来のお力によって念仏を唱えているだけであって、私は、そういう弥陀の力という凄いものがこの世にあることを取り次いであげたにすぎないのだ。
つまり、世に念仏のともがらの弟子と言われている者たちは、すべて阿弥陀如来の力によって念仏を唱えているだけなのであって、弥陀の弟子ではあっても、自分の弟子などということは、誠に心が寒々となるとんでもないことだ、と。
親鸞聖人は自力というものを徹底して否定される。
何事も自分の力でやっているという意識はないんですね。
すなわち人々が念仏をするのは、決して親鸞自身の力で教え導いたからではなくて、それはあくまで「弥陀の御もよおし」(=他力)なのだと。
だから自分は師匠でもなんでもないから、したり顔でわが弟子などということは大変な心得ちがいだというのです。
いいですねぇ。 自分には弟子など一人もいない!と言いきっちゃうわけです。
「心が寒々となる」(原文では「きわめたる荒涼のことなり」)という表現は、聖人自身の気持ちを如実に象徴していると言えます。
聖人は信徒に対して「御同朋」「御同行」としてひたすら平等に接しておられたのです。
正しい信心さえも持てずに、信徒を弟子あつかいするなどもってのほかであり、あさまし、あさまし、ということなのでしょう。
師匠だなどという思いあがりや奢りの意識を厳しく批判するわけです。
そしてその次に出てくるのが表題の言葉です。
‘ つくべき縁あればともない はなるべき縁あればはなる ’
要するに人と人との出会い、あるいは別れというのは、所詮は「縁」であるというのです。
仏教ではその教えの根本として、すべての事象は縁によってもたされているのだと考えます。因果の法則です。
ある師匠の下にある弟子が来るというのも「つくべき縁」があったからであり、またある弟子が師匠の下を去るのも「はなるべき縁」があったからのなのです。
これは師弟の関係に限らず、家族、夫婦、友人、知人、仕事仲間、etc.、
すべての人間関係においても同様のことが言えるのでしょう。
私も仕事柄いろんな人に出会いますが、ずっとお付き合いさせていただいている人とはやはり「つくべき縁」があったからなのでしょう。
逆に、一時は私の事務所に出入りしてた人が今はさっぱり姿を見せなくなった、という人もいます。
いいではないですか、それで。
そういう人は、やはり「はなるべき縁」、つまり離れていく条件が整ったので離れていっただけなのです。
すなわちその人は、本来うちの事務所とは因と縁がなかったにもかかわらず、どういうわけか何かの間違いで私の事務所に入って来てしまったのですから、いずれ必ず離れていくものなのです。これが真相です。
とかく人間は、ある人が自分の下を去ったり疎遠になったときにはトサカに来たり落胆したりするものですが、これも全部「はなるべき縁」だったのだと考えれば「あー、そうか」で済んじゃいますね。水のようにサラサラと生きることができます。
さらに6条の結びとして、親鸞聖人はこうおっしゃる。
如来よりたまはりたる信心を、わがものがほに、とりかえさんと申すにや。かへすがへすもあるべからざることなり。自然のことわりにあひかなはば、仏恩をもしり、また師の恩をもしるべきなり。
<意訳>
阿弥陀如来から頂戴した信心を、まるで自分が授けたものだという顔でこれを取り返えそうとでもいうのか。このようなことは絶対にあってはならないことだ。
去っていったあの信楽房も、いずれ自然法爾(じねんほうに)の真理がわかってくるであろう。そのときにこそ、信楽房は阿弥陀如来の恩を自覚し、また本当の師匠の恩というものを知るはずだ。
だからあえて取り返す必要はない。放っておけ。
※自然法爾 : 親鸞聖人が90年の生涯において最後に到達された境地で、自分のはからいを捨てて、阿弥陀如来の本願にまかせきること。つまり、大いなる仏のはたらきかけに自分の身も心もすべて委ねるということ。
なるほど、すごい境地です。
人知を超えた大いなる存在にすべてを委ねて生きていく。
ここで注目すべきは、親鸞は自分のもとを去った人間を決して見放してはいないのです。
ともに念仏を申す間柄であれば、いずれ信楽房も恩義というものがわかるはずだという、聖人の大らかさと深い愛情が感じられます。
現にその後、信楽房は改心して親鸞のもとに戻り、門弟二十四輩に名を連ねる程になっています。
ところで「大いなるもの」とは、阿弥陀如来に限らず自分が信じるものでいいのです。
仏様でも観音様でもお不動様でも、大日如来でもお薬師様でもお大師様でも、天照大御神でもイエス様でもアッラーの神でも、とにかく身も心もはなち、小賢しい自分のはからいをすべて捨てて全部をおまかせし、その大いなるものの御うながし、御もよおしのまにまに生かさせていただく。
私の場合は観音様でありまして、自分の命も、人とのご縁も、仕事も思考も行動も何もかも、もう全部をおまかせして日々を過ごしています。
そして観音様は、きっと、私にとって最も良い道を選択され、導いてくれていると信じています。
そう信ずるほかに別の子細なきなり、なのであります。
平成二十九年 皐月
司法書士・特定行政書士 五十嵐 正 敏
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