いがらし事務所の所長ってどんな人?

ここの事務所の所長はどんな人なの?

普段どんなことを考えているの?

所長五十嵐は、平成26年から不定期でその時その時に起こったことや考えてることを本ホームページ上にBlogとして残してきています。

気が向いたときに、心に浮かんだことをそのまま綴ってきたのものです。

なので各回の内容に一貫性や統一性はありません。

大したことは考えていませんが、所長の「人となり」とをうかがい知る手立てにはなるかもしれません。           

 毒を離れたら 仏さまに ほめられた

仏さまに ほめられるには

先日確定申告をするのに税務署へ行きました。

その際とても理不尽な出来事がありました。

そこである「行い」を実践してみたところ、仏さまから褒められたというお話をしたいと思います。

 

確定申告の時期、税務署にはいつものように多くの人が訪れ、申告会場へは長蛇の列ができていました。

私も最後尾に並び、約20分程並んで先頭に来たとき、職員の方から「整理券は?」と言われました。

入場するには整理券が必要なようです。

 

しかし並ぶ際に職員からそのような説明は何もなく、さらに並ぶ場所のどこにもそのような案内文や注意書きは見当たりません。

どうも税務署の玄関横に整理券が置いてあったようですが、私は気づかずに通り過ぎ、そんなことは知らずに20分以上並んでいたのです。

そりゃね、事前に職員から注意喚起の説明があったり、そうどこかに書いてあれば、オレだってそうしたっての‼️('ω')

 

上記の事情を職員に言ってみましたが、全く取り合ってくれません。

整理券を取ってもう一度並んで下さいと繰り返すばかりで、まったく融通が効きません。

いかにも社会経験と社会性に乏しく、人の心と痛みに鈍感な、お役所の一職員の哀れな所作と言えます。

不親切と理不尽の極みです。

血も涙もない。 

ゴネ続ければ何とかなったかもしれませんが、私はしませんでした。

入口に戻って整理券を取り、もう一度最後尾から並び直しました。

 

ところで、仏教には三毒という根本となる教えがあります。

貧、瞋、痴を人間の三つの毒とし、これらの毒から離れよと説きます。

 

そのうちの「瞋」とは瞋恚とも言い、瞋り(怒り)の心のことです。

腹立ち、怒りのことですが、人間は怒りの感情を持つと、この一時的な感情が人の心を乱し、対人関係を破壊するだけでなく、自分の心身の健康にも悪影響を及ぼし人生を台無にしてしまうこともあるのです。

だから怒りの感情、即ち怒ることを「毒」として戒めています。

 

整理券の話に戻すと、確かに20分以上も並んで「もう一度」と言われたときには“ 怒❢怒❢怒❢ ”となりましたが、その時ふと三毒の「瞋」が心に浮かんだのです。

怒るな怒るな、と自分に言い聞かせ、自分の中の瞋りの感情をいなし続けたのです。

 

ところがその後予期せぬことが起こりました。

もう一度並び直し、順番が来て中に入り、本題の税務申告書の確認作業をしていた時、一人のオジサンが近づいてきて私にこう言いました。

「さっきはむずかづによく堪えたね。偉かったよ。」

オジサンは私の後方に並んでいた人のようで、事の成り行きや一部始終をすべて見ていたのです。

 

オジサンのこの言葉によって、そのとき私はとても救われた気持ちになりました。

残っていた怒の感情も全て吹っ飛び、「もうどうでもいいや」と思えるようになったのです。

同時に、あのとき怒らなくて良かったなと心から思えました。

 

瞋りの感情にまかせてあの時怒っていたら、何を言ったかわからなかったことでしょう。

どんなに醜い自分の姿を大衆の前に晒したかも知れません。

そしてその怒りをいつまでも引きずり、数日間は不快と後悔の気持ちで過ごすことを余儀なくされていたでしょう。

三毒とはこういうことなのかと改めて実感できた瞬間でした。

 

オジサンは、きっと、仏さまの化身だったのだろうと今は思っています。

仏さまが オジサンの姿になって現れ 褒めてくれた、そう確信しています。

令和六年皐月

 ぼくにだって言いぶんがある

トルーマン・カポーティの短編集に『夜の樹』(A  TREE  OF  NIGHT)という一冊があります。

表題はその短編集の作品の一つです。

英題は My  Side  of  the  Matter

 

大学で英文学を専攻していた関係で、学生時代は外国の文学をよく読んでました。

先日押入れに眠っていた大量の本を整理していた時に「夜の樹」の文庫本が出て来ました。

約30年ぶりの再会です。

懐かしさとともにペラペラとめくってみると、面白そうなタイトルの短編があり、本の整理も忘れて思わずその場で読み込んでしまいました。

30年前にきっと読んいたはずの短編でしたが、内容はすっかり忘れていました。

15分位で読める短いもので、川本三郎さんの訳がこれまた絶妙であり、30年以上の時を経て、改めて膝を叩いてしまいました。

 

短編「ぼくにだって言いぶんがあるMy  Side  of  the  Matterはこのような冒頭で始まります。

〝みんながぼくのことをなんといっているか、そんなことはわかっている。ぼくの味方になってくれるか、それともあの連中の肩をもつか、それはきみが勝手にきめることだ。〟

 

内容は、主人公の「ぼく」に対して、ユーニスとオリヴァア=アンという二人の義叔母からのひどい仕打ちの数々を題材としたドタバタ劇です。

ユーニスとオリヴァ=アンの無知、偏見、先入観、妄想によって、僕はけちょんけちょんに虐げられ、罵倒され続けられます。

そんな僕の気持ちを一言で表現したのが、「ぼくにだって言いぶんがある」ということなのでしょう。

 

「僕」に限らず、世の中は多くの無知、偏見、先入観、妄想によって成り立っています。

私たちはそんな世界で生きているからこそ、真実は何なのかをしっかりと見極めることが必要です。

自分の都合の良いことだけを喋り、都合の悪いことは言わないのが人間です。

そこに真実はありません。

一方の言うことだけを聞き、それを元に他方を判断してしまうことは馬鹿げたことです。

噂話や伝聞をそのまま真に受け、双方の言いぶんを聞くこともなく、先入観と妄想に凝り固まって人を判断するような愚かな人は、その最たる例といえます。

そんな「つまらない人」からの評価などは放っておけばよろしい。

冒頭の「それはきみが勝手にきめることだ」にはそんな意味が込められているのでしょう。

他方にも、きっと言いぶんがあるのです。

最近、地方では熊の出現が相次ぎ、様々な被害が報道されています。東北や北陸を中心に、熊に襲われて人が死傷する事故が相次いでいるようです。

これは、熊が一方的に悪いのでしょうか。

熊は熊で、彼(彼女)らにも言いぶんがあるのです。

「生きていくためには、私たちも食べていかなければならないのです。」「人間が一番偉いのかい?」という言いぶんは至極まっとうです。

同様に、世の中のあらゆる生き物や動植物にも言いぶんがあるということです。

人間ほど、他を殺生して生きている生物はいないでしょう。

人間が一番偉く優先される、傲慢な考え方です。

 

今回、偶然再開したカポーティの短編集からは、私自身、改めて気づかされたものがありました。

まずはそれぞれの言い分をよく聞いてみよう、さらに言葉の行間を意識していこう。

そして、愚かで「つまらない人間」にならないようにしないとな、ということでした。

令和五年 神無月

 ひきこもりは悪なのか?

NHKラジオで『ひきこもりラジオ』という番組があります。(NHKラジオ第1 毎月最終金曜日20:05)

たまたま1年前にこの番組があるのを知ったのですが、その後どういうわけか気になるラジオとなり、以来毎月聞くようにしています。

なぜ気になったかというと、以前仕事の中で知り合った方がひきこもりがちの方であり、その方との繋がりの中で、私自身、さまざまな発見と学びがあったからです。

 

NHKの番組HPには次のように番組の内容が紹介されています。

ひきこもりラジオとは?

100万人のひきこもり、話したいことも悩みも千差万別。

就労や親の介護以外のことも語りたい!という声がNHKにたくさん届いています。

そこで、始めます!ひきこもりのひきこもりによるひきこもりのための番組!

「みんなでひきこもりラジオ」

当事者や関係者の皆さんは、もちろん、いろんな方々の参加をお待ちしております。

MC:栗原望アナウンサー

 

ひきこもりラジオを聞いていていつも感じることは、栗原アナウンサーの接し方がとにかく優しく穏やかだということです。

聴く姿勢に終始し、「ひきこもり」を決して否定しない、そして一貫して「ありがとう」の言葉を投げかけるという進行に、ひきこもりのリスナーが安心して聴いていられるという側面があるのでしょう。

リスナーの方々は番組HP投稿ホームや手紙・はがき、電話で参加できるようになっており、ただこのラジオに耳を傾けるというだけでも、自身が参加している実感を持てるようです。

リスナーの方々に共通するのは、共通の苦しみを共有できる「仲間との繋がり」、「自分は一人ではない」と思える時間を持つことができる安心感なのかも知れません。

ひきこもりのひきこもりによるひきこもりのための番組

的を得ています。

こんな番組があってもいいでしょう。

番組終盤に「みんなで乾杯」というコーナーがあるのですが、これもリスナーの「一体感」を体現できる貴重な機会のように思えます。

 

自ら好んで「ひきこもる」という人はそう多くはないように思います。

図らずも何かの「きっかけ」によって、そのきっかけは人それぞれですが、やむなく、あるいは行き場がなくひきこもりの道に入ってしまった、というのが実情なのでしょう。

ひきこもりラジオを聴いていると、「怠け者、甘ったれ、情けない」といった無知や偏見、先入観が恥ずかしく思えてきます。

 

死なないためにひきこもる、生きていくためにひきこもる、それでいいのです。

焦るな。

いつか外に出たくなったときに、出られる状態になったときに、一歩づつ出ていけばいいじゃないか。

ひきこもり万歳!

世界はもっと寛容であっていいのだ。

 

このラジオからはそんなメッセージが聞こえてきます。

番組エンディング、栗原アナの結びの言葉が非常に印象的でした。

みなさん、生きてまた逢いましょう

令和5年皐月

 手塚治虫『ブッダ』を読んで

ブッダ 第12巻

あるきっかけで、手塚治虫の『ブッダ』全12巻を完読しました。

各巻の表紙にはそれぞれ異なった動物が描かれていて、一巻一巻読み進んでいくごとに「これはどういう意味があるのだ?」と思っていましたが、最終第12巻においてその謎が解けました。

第12巻 旅の終わり の表紙には、大樹の下ですべての動物がブッダを囲んでいます。

なるほど、そういうことだったのか!と思わず膝を叩きました。

つまり、この世にある生き物、生命はすべて一体であり、そこにはいかなる差別もなく、優劣もなく、みな平等である、というこの漫画、いや仏教の大きなテーマがここに表現されていたのです。

 

輪廻、慈悲、空、諸行無常、小欲知足、四諦、八正道、因果の法則、法灯明・自灯明、仏・法・僧、等々

この書物には、様々なお話の中で上記仏教本来の教えがふんだんに盛り込まれており、しかもそれらが小学生でも自然に感じ身につくよう、わかりやすく描写されている非常に優れた仏教書の側面もあります。

 

全体的には、争い、差別、欲望、嫉妬、老い、病気、死、など人間世界の「苦」の部分がこれでもかこれでもかとお話の中心になっているのですが、それでも、そんな世界で生きていくための「智慧」がブッダによって語られています。

また、人物、動物、自然などの絵(画)も、あるときは美しく、あるときはコミカルに、あるときは残酷に描写され、そしてところどころにユーモアが織り込まれていて読者を飽きさせません。

 

私がこの『ブッダ』を読み終えたときの第一の感想は、10代、遅くとも20代前半くらいまでにこの漫画は読んでおきたかったな、そうすれば自分の人生もずいぶん変わっていただろうな、ということでした。

若いうちに『ブッダ』を読んでおくと、その人のその後の長い人生、人や、自然や、すべての動植物に対するものの見方や考え方、世界の見え方もに大きな影響が生じていくのかも知れません。

もちろん良い方向にです。

ひいては、自分がこの世に生まれてきた意味、いま自分がここに存在している意義、自分自身の在り方、人としての生き方、自己と他者との関係性等々、その人にとって正しくより充実した人生を送るためのヒントになっていくような気がしています。

 

説法をする晩年のブッダ

最終第12巻では、晩年のブッダが次のように説法をしています。

いつも私はいっているね

この世のあらゆる生きものはみんな深いきずなで結ばれているのだと…

人間だけではなく 犬も馬も牛もトラも魚も鳥も そして虫も… それから草も木も…

命のみなもとはつながっているのだ

みんな兄弟で平等だ おぼえておきなさい

そして… みんな苦しみやなやみをかえて生きている

もしあなたがたの親や兄弟の中に飢え苦しんでいたり 不幸が起こったりしたらどうなる?

あなたの家はつぶれ あなた自身にも不幸がくるでしょう

自分の不幸を 自分の苦しみをなおすことだけ考えるのは 心がせまいのだ

みんなのことを考えてみなさい

だれでもいい 人間でもほかの生きものでもいい 相手を助けなさい

苦しんでいれば救ってやり こまっていれば ちからを貸してやりなさい

なぜなら 人間もけものも 虫も草木も 大自然という家の中の親兄弟だからです!

ときには 身を投げだしても 相手を救ってやるがよい

 

私は年齢を経てたまたまこの書物に接する機会に恵まれたわけですが、それでもこれからの自分自身の在り方、人生の送り方を再確認できた点では、とても大きな意味があったと今思っています。

令和5年卯月

 事を事とすればすなわちそれ備えあり~特定行政書士になった動機~

人が何かを為すには、普段からしっかりと準備をしておくことが必要です。

行き当たりばったりで対応していたのでは、何かが起きた時にうまく対処できません。

訪れたチャンスも逃してしまいます。

岩崎弥太郎(三菱財閥創始者)は次のような言葉を残しています。

川や海に魚が群れをなしてくることがあるが、機会が訪れるのもそれと同じだ。それっ、魚が集まった、といって網をつくろうとするのでは、間に合わぬ。いつ魚がきても、すぐに捕えられるように、不断に準備をしていて、その場になってまごつかぬようにしておかなければならぬ。

 

私は、令和3年11月の行政書士試験を受け、令和4年4月に行政書士として登録しました。さらに、令和4年夏からの「特定」行政書士の法定研修を受け、令和4年11月に特定行政書士として認定を受けました。

ところで、私は平成18年に司法書士になり、その後約15年間司法書士として活動してきましたが、その中で、「ある出来事」をきっかけに、行政書士、さらには特定行政書士の資格取得を決意し、何かがあったときに備えておこうと考えました。

そのことについて少しお話しをしてみたいと思います。

 

一般の方は、司法書士と行政書士の違いなんてほとんどの方がわからないと思います。

ごくごく簡単にいうと、司法書士は裁判所や法務局に対する諸手続きができる職能であるのに対し、行政書士は行政機関に対する諸手続きができる職能といえます。

行政機関とは、各省庁、都道府県庁、市、区役所、町・村役場、警察署などをいいます。

諸手続きとは、各手続きに関する書類を作成したり、代理人としてその手続きに関与していくことです。

 

「ある出来事」とは平成30年夏のことでした。

私の事務所に、30代半ばの女性の方(以下「Aさん」とします。)が相談にみえました。

幼い子と二人で、細々と暮らす母子家庭のお母さんでした。

事案の詳細は控えますが、行政機関の対応に問題があり、本来受給できるべきお金が受けることができていない状況でした。

当時私は司法書士であって行政書士資格を持っていなかったため、私がAさんの代理人となって、その行政機関と折衝していく権限がありません。この案件において代理人となれるのは弁護士か行政書士だけでしたが、諸般の事情により(主に費用面)、改めて弁護士や行政書士に依頼をすることができませんでした。

そこで、私は司法書士としてできる限りのアドバイスや後方支援をしながら、直接ご本人が行政機関と折衝をしていくことを陰から支えるという形態で関与せざるを得ない状況でした。

しかしながら、法律的な知識が皆無であるAさんご本人において、直接行政権力と対峙していくことにはやはり限界があり、結局、Aさんの主張が認められることはありませんでした。

Aさんご自身は「やるだけやってダメだったのでもういいです。私はスッキリしています。いろいろありがとうございました。」と言って去っていきました。

確かにあのときのAさんの顔は幾分晴れ晴れとし、ある種の充実感のようなものが感じられました。過去のことはここできっぱり区切りをつけ、これからしっかり前を向いて頑張って息子を育てていくのだ、という意気込みのようなものが感じられました。

まあ、それはそれでよかったのですが、私の心は収まりがあまりよくありませんでした。

行政書士の資格をもっていれば、私が代理人として行政と話をしていければ、Aさんにとってもう少し有益なやり取りができたかも知れない、場合によっては結果も変わっていたかもな…、という自らの「無力感」を感じていたのです。

 

その後月日は流れ忙しく過ごしていく中で数年が経ち、Aさんの一件やあの時の無力感も忘れかけていたころ、ふと、

そんなんでいいのか?

呑気に漫然と過ごしていていいのか?

お前は何のために今の仕事をしているんだ?

他にできること、やるべきことはあるんじゃないのか?

と問いかけるもう一人の自分が姿を現しました。

 

「よし、行政書士とるぞ」と心に決め勉強を開始し、そして冒頭のような経緯で特定行政書士の資格を取得しました。

今後この資格が役に立つ機会があるのかどうかはわかりません。

しかし、常に準備をしておくことが大切だと思っています。

 事を事とすればすなわちそれ備えあり 

準備を怠りなく、その場になってまごつかぬようにしておかなければならぬ、ということです。

令和四年霜月

 己を賢者と思う者は愚者である

最近、他人のことを指して「頭の悪い人」云々といった言葉を多用する人がいるようです。

何をもって頭がいい・悪いというのかは、それぞれその人によって違うのでしょう。 

  • お勉強の出来不出来
  • 頭の回転の速さ
  • 商才
  • お金を得る才覚
  • 世渡りの才能(世渡り上手)   etc.

 

私が思うところの「頭の良さ」は、「物事の道理をわきまえている」ということだと考えています。言い換えると、人としての「智慧」を持ち合わせているということです。

道理、智慧とは、例えば、

  • 私のものは何ひとつない。わたし自身も私のものではない。ならばどうして私の子や財産が私のものであろうか。
  • 金を持ち、財をなし、地位を得ようとも、欲望が満足されることはない。悩みは尽きない。
  • 愚かな者と群れるな。独りで行け。孤独(ひとり)で歩め。林の中にいる象のように。
  • 悪事を働いても、その報いがすぐに現れるというわけではない。悪の報いが熟しない間は、悪人でも幸運にあうこともあり、愚かな者はそれを密のようにおもいなす。しかしその業は、灰に覆われた火のように、徐々に燃えて悩ましながらその者につきまとう。
  • 怨みは怨みによっては決して静まらない。怨みの状態は、怨みのないことによって静まる。智慧を知る人は、怨みをつくらない。

などなど。

 

ところで、「頭の悪い人」云々を口にする人は、おそらく自分は頭が悪くない、頭がいいと思っている人なのでしょう。

ならばそこには、他者への「見下し」、他者に対する「傲慢」な心がうかがわれます。

こうしたとき、「じゃ、あなたは頭がいいですか?賢い人ですか?」と逆に聞き返してみると、その人はなんと答えるのでしょうか。興味があります。

「はい、私は頭がいいです。賢者です。」と言うのでしょうか。

言わないまでも、内心、きっとそう思っているのでしょう。

自分は賢いと思っているから、他人のことが「頭が悪く」見えてくるのです。

男はつらいよ 第16作葛飾立志編(昭和50年12月公開)では、次ようなシーンがあります。

寅次郎は、自分に「学」がないことを日々思い悩んでいました。

旅先、山形県大江町のとある寺で、大滝秀治さん扮する和尚さんと次のようなやりとりをします。

 :私は学問がないばかりに、これまでつらい思いや悲しい思いをどれだけしたかわかりません。私のようなバカな男はどうしようもありません。

和尚:それはちがう。その愚かさに気づいた人間は愚かとは言わない。あなたはもう利巧な人間だ。

秀治和尚は寅さんを指さしこのように言ったのです。

なるほど。

さすが秀治和尚。
 

法句経(ダンマパダ)の63偈にも同様のことが書いてあります(『ブッダ真理のことば』、中村元 訳、岩波文庫)。

もしも愚者がみずから愚であると考えれば、すなわち賢者である。

愚者でありながら、しかもみずから賢者だと思う者こそ、「愚者」だと言われる。 

 

法句経は、釈迦が説いた原始仏教のことばとして「真理のことば」といわれています。

真理、すなわち道理、智慧のことばといえます。

そうすると、他者に対して「頭の悪い人」云々を口にする人は、実は、自分を賢者であると錯覚してしまっている人といえますから、上記の道理に従えば、その者こそ「愚者」、即ち「バカ者」だということになるのです。

そしてこのようなことは、物事の道理を知らないことから生じる愚行なのです。

ですから、この手の人に対しては、このように返しておきたいものです。

仰せのとおり、私は頭が悪く愚かな人間です。すみません。でも、寅さんのように常にそのことを忘れず、それをよすがに生きていきたいと思っています。

自分の「頭の良さ」をひけらかしたい、他者との関係において優位なマウントをとりたいなどの思惑で口にする言葉は、実は、自分の愚かさを口にしていることであり、己の恥をさらしていることになります。

そして最も深刻なことは、それが恥ずかしい行いであるということに自分が気づいていないことです。このような状態を「無明」というのです。

よくよく気をつけるようにしましょう。自戒の念を込めて。

寅さんが人々から慕われ人気を得たのは、寅さん自身が、実は、物事の道理をわきまえた利巧な方だったからなのかも知れません。

令和4年長月

 善行はこっそり行うべし

サンドウィッチマン伊達みきおさんの後輩芸人 田中光さんが次のようなエピソードを明かしています。

事務所の洗面所のドアを開けたら、手洗い場を綺麗に拭き上げているサンドウィッチマン伊達さんがいた。

「まぁ、たまにしか事務所来ねぇからこれくらいはな。変なとこ見られちゃったなぁ」

と照れ臭そうに言った。

なんてかっこいい先輩なんだろう。

なんかほっこりします。

善行は、誰にもわからないように、誰にも見られないように、コソっとやるからかっこいいのです。

伊達さんは不覚にも見られてしまったわけですが、そのときの「返し」がこれまたほっこりします。

人柄があらわれています。


とかく人間というものは、なにか善いことをした時には、それを誰かに認めてもらいたい、誰かに褒めてもらいたい、誰かから感心されたいといった感情を持ってしまうものですが、それではせっかくの善行が半減してしまいます。

これ見よがしに行っていればなおさら、周りの目は冷ややかでしょう。

なぜならその善行には「自分の都合」というものが見え隠れしているからです。

結局それって人の為? それとも自分の為?

と問われたときに、「自分の為」の要素が混在していると、その善行は「偽の善行」ということになってしまうからです。

 

以前、「見返りを求めるところに美は生まれない」というところでも触れましたが、「一つ善行をする度にどんないい事があるかな〜」などと見返りを期待するのは卑しい心です。

善行というのは、何も見返りを期待しない、無私の心でしてこそその意味があるのです。

そこに少しでもお返しや見返りを期待したとすれば、その行いは「投資」であり、善行らしく見せかけた悪行ということになります。

そしてそれは、見るだけで悪行とわかる単純悪よりたちの悪い悪行といわれます。このことをしっかり心得ておかなければなりません。

伊達さんは人間ができているので、おそらく無意識の中で「こっそり」と拭き掃除をしていたのでしょう。

 

「宝鏡三昧」(ほうきょうざんまい)というお経があります。

これは主に曹洞宗であげられるお経ですが、その末尾に、

“ 潜行密用は、愚のごとく魯のごとし ”

という言葉があります。

仏の「行」いは「潜」んで秘「密」裡に、ただただ「愚」直に実行すべし、という意味です。

私はこの言葉が好きで、日ごろの行いのよすがにしています。

 

わかりやすく言うと、「行」というものは、悟り臭さを忘れた行動にこそ親和的であり、人から見られないところでの行い、誰にも知られることのない行い、そういった行いを愚直に行っていくことである。この「愚直」こそ自己主張を離れることであり、そこで初めて角が取れ本物になっていくのだ、ということです。

これは仏道に限らず、すべての「善行」に置き換えてみても同じことが言えるでしょう。

 

善い行いというものは、誰にもわからないように「こっそり」行うところに本当のカッコよさが宿ってくるということです。

後輩芸人田中光さんは、このカッコよさを伊達さんに観たのです。  

令和三年師走 

 しゃべる前に三度考える

誰でも失言をした経験があると思います。

何気なしに発した言葉が、後々とんでもない事態に発展してしまうこともあります。

かく言う私も、不用意な発言によって、無意識のうちに相手を傷つけてしまったり、

不快な気持ちにさせてしまっていることがあるかも知れません。

どうしてそういうことが起こってしまうかというと、一言でいうと油断ということかもしれません。

その言葉を聞いた相手がどう思うのか、どう感じるのかの想像力が不十分であったり、または欠けていたりすることが原因ともいえるのでしょう。 

 

ところで、失言については道元禅師(曹洞宗の開祖)もちゃんと指摘していまして、『正法眼蔵随聞記』にはこうあります。

 学道の人、言(こと)ばを発せんとする時は、

 三度(みたび)顧(かえり)みて

 自利利他の為に利あるべくんば是(これ)を云(いう)べし。

 利なからん言語(ごんご)は止(とど)まるべし。

 かくのごときの事も一度にはゑがたし。

 心にかけて漸々(ぜんぜん)に習ふべきなり。

(面山本 六の三、長円寺本 一の三)

 

つまり仏道を学び実践しようとする者が何かを言おうとする時は、三度(みたび)考えてから言うか云わないかを決めなさい。

何を考えるかというと、その言葉が自分のためになり、また他人のためにもなるのかどうかということです。

そこで特に他人(相手)のためになると思ったら言い、ためにならないと思ったら言わないこと。

これは一度にできるようになるのは難しい。

心掛けてだんだんに練習すべきである、ということです。

 

なるほど、喋る前に三度考えてみるということです。

ここでいう三度というのは回数の意味ではなく、よくよく慎重に頭の中で幾度も反復しなさいということです。

その結果、利なからん言語は止まるべし、即ち無用な言葉は口に出さずに飲み込みなさい、ということです。

 

言っている意味はよくわかるのですが、しかし日常会話でこれをやっていたらなかなか会話が続きません。 

禅師様もそこはよくわかっていて、ですから「かくのごときの事も一度にはゑがたし、心にかけて漸々に習ふべきなり」なのでしょう。

一つの言葉が人を幸せにも不幸にもします。 

私も以前、不用意に「おもしろい」という言葉を使ったことで、友人からそれ失礼だよと指摘されました。

そう言われて、その後三度顧みてみたところ、やはり自分が相手の立場だったらあまりいい気はしないかもな、とはたと気がつきました。

後悔、先に立たず・・・、です。 

一つの言葉も、その捉えようは相手方次第ですから、たとえ自分はそんなつもりじゃなかったとしても、誤解を招くような言葉は初めから「止まるべし」なのでしょう。

  

一度口から出てしまった言葉を口の中に戻すことはできません。

ならば口から出る前によく考えてみなさい、ということを禅師様はおっしゃっているのです。

「後悔、先に立たず」ではなく、後悔を先に立たせるように漸々に練習しなさい、ということですね。

令和元年 葉月  令和3年 葉月(改) 

 起きて半畳 寝て一畳

生きていると様々な「物」(モノ)を持ってしまいがちです。

そして無自覚に油断していると、モノは無限に増えていきます。

反比例して、人生の時間は着実に減っていきます。

モノはお金で買えますが、時間はお金で買えません。

部屋の中を見回してみても、たくさんのモノで溢れかえっていませんか?

必要なモノもあれば、まったく使ってないモノ、もはや必要ではないモノもたくさんあります。

これは「モノ」に限らず、人間関係においても同様といえるでしょう。携帯のアドレス帳にたくさんの名前が登録されていたところで、実際のところ、今はもう必要でない「人」も多いものです。

多くのモノや人間関係を持つことで充実感を得る人がいる一方で、「持たない」ことの有益性が見直されてきているようです。

断捨離やミニマリストといった行動様式が注目されています。

 

私も昔から「持たない」ことを心がけていて、とにかく使わないもの、必要でないものは率先して捨てちゃうようにしています。

「それ、本当に必要なもの?」と自分自身に問いかけてみると、本当に必要なものはそう多くはありません。

モノより時間を大切にしたいので、モノは必要な分だけあればそれでよいと思っています。

いつか必要になるときがくるかも知れない、の「いつか」はほとんど来ません。

この「いつか」のために窮屈な生活を強いられるのは割に合わないので、将来その「いつか」が来たら、その時に買えばよいと思って捨ててしまいます。

 

車も、流行や高級車とかにはまったく興味がありません。

今乗っているのは8年落ちのニッサンの大衆車です。故障もなくちゃんと走りますからそれで十分です。

テレビをだらだらと見ていると3,4時間がすぐに経ってしまいます。

またもや無為な時間を消費してまったな・・・、暗澹な気持ちになるのが嫌で、テレビを見るのもやめてしまいました。

世情はネットのサイトで確認していますから、最小限のことは承知しています。

「情報」も最小限で足りる、というところがミソです。

そのようにしてどんどん捨てていくうちに、我が家のリビングはとてもスッキリしました。(→写真はうちのリビングで、モノがないため解放感◎です。)

我が家的には、窓から見える山々や樹々の風景があれば十分です。

家の西側が檜林となっていて、この林がサイコーです。

四季はもちろん、毎日、日の出から日の入りまで、さまざまな素顔を見せてくれるので心が癒されます。

うちに「あるもの」は、

注がれる陽光、流れる雲、樹々の彩、鳥や蜩(ひぐらし)の声、振り子時計のコチコチ、庭の花々、蝋梅の香り(真冬時)、檜林からの木漏れ日、炒った珈琲とお香の香り(このお香は結構高いものです。)、月明かり、鮮やかな北斗七星、そして静寂と漆黒の闇、といったところです。

 

起きて半畳 寝て一畳 ということばがあります。

これは、人間一人に必要なスペースは、起きている時は半畳、寝ている時には一畳分で足りるということです。

まさにそのとおりですね。

禅寺の修行道場で修業する修行僧を雲水と呼びますが、雲水に与えられる生活上のスペースも一畳分です。この一畳の中で寝起きをし、座禅をし、食事をするのです。

それで十分、ちゃんと生きていけます。何も困りません。                   

 

「起きて半畳 寝て一畳」は、言い換えると「足るを知る」という禅語に通じます。

見かけや外観はあくまで作り物です。

モノ、カネ、地位、アドレス帳の登録数、etc…、これらは人の評価や人生の価値とは無関係です。

つまらない見栄やプライドは、自分自身をスポイルするだけでなんの役にも立ちません。

ならばそんなものは即捨てる。

捨ててしまえ。

 

モノがなくても豊かに生きていくことができます。

本当に必要なものだけを大切にし、身の丈にあった暮らしで丁寧に生きる。

少ないモノでセンスよく生きる。

そんな生き方の選択もイイと思います。

 

以下、亡 中村 哲 医師のことばです。

人間にとって本当に必要なものは、そう多くはない。
少なくとも私は「カネさえあれば幸せになる」という迷信、「武力さえあれば身が守れる」とういう妄信からは自由である。
何が真実で何が不要なのか、何が人として最低限共有できるものなのか、目を凝らして見つめ、健全な感性と自然との関係を回復することである。

戦後60年、自分はその時代の精神的気流の中で生きてきた。
しかし、変わらぬものは変わらない。
江戸時代も、縄文の昔もそうであったろう。
いたずらに時流に流されて大切なものを見失い、進歩という名の呪文に束縛され、生命を粗末にしてはならない。

今大人たちが唱える「改革」や「進歩」の実態は、宙に縄をかけてそれをよじ登ろうとする魔術師に似ている。
だまされてはいけない。
「王様は裸だ」と叫んだ者は、見栄や先入観、利害関係から自由な子供であった。
それを次世代に期待する。

(出典:NHK知るを楽しむ アフガン・命の水を求めて 中村哲、2006 日本放送出版協会 135頁)

生前の中村医師からは、豪邸も高級車もブランド品も、およそイメージできません。

実際、それらとは無縁の人生を歩まれた方でした。

無駄口はたたかず、寡黙に「実行」を実践されていました。

だから奥底からカッコイイのです。

人間の真のカッコよさは、物でも金でもない。

「生きざま」です。

そのことを中村医師は証明してくれたように思います。

単なる成金に成り下がって闊歩していても、傍から見ると「みっともない」だけです。

 

何が真実で何が不要なのか、目を凝らして見つめる必要がある。 

亡くなる13年前の言葉ですが、今思うと、次世代の若者たちへの切実なる遺言であったようにも思えます。

令和2年師走 (令和3年文月 追記)

ましな考え( better idea )を持て〜ある校長先生のことば〜

youtube 上である一つの動画に出会いました。

アメリカ空軍士官学校の校長であるジェイ・シルベリア(Jay Silveria)中将の言葉です。

人種差別者に対して、厳しい口調で「Get Out」と訓示しています。

そんな人間は軍には必要ない、今すぐ去れ、出ていけ、ということです。

決して大声をあげているわけではありませんが、内からすごい気迫が伝わってきます。

 

“ ましな考え(better idea)を持て 、事なかれ主義は stupid  だ ”

5分21秒の動画ですが、心にビンビンきます。

こういう方がいるアメリカ軍も捨てたものじゃないですね。

シルベリア校長、尊敬に値します。

シルベリア校長の説法の要旨は次のとおりです。

とんでもない言葉や とんでもない考えに対する

ふさわしい反応というのは

ましな考えを返すことだ

 

あらゆる人種 あらゆる背景 あらゆる性別 あらゆる生い立ち

そんな多様な人たちの力があればこそ

我々はその分だけ強くなる

 

もし 誰かの尊厳を尊重し

敬意と共に接することがきないなら

出ていきなさい

 

性別の違う相手を

それが男性だろうが女性だろうが

尊重し敬意をもって接することができないなら

出ていきなさい

 

たとえどんな形でも

人を侮辱するような者は

出ていきなさい

 

人種が違う

あるいは肌の色が違う相手を

尊重し敬意をもって接することができないなら

出ていきなさい

 

我々がみんな一丸となって

道義的な勇気が持てるように

私のこの言葉を持っていてほしい

 

他人を尊重して

敬意をもって接することができないなら

出ていきなさい

                    以上

かっこいい。

この一言に尽きます。  

動画は ⇒ https://www.youtube.com/watch?v=XtyCvA8eN18

令和2年卯月

 本当を知る

私の家には法語カレンダーがあります。

今月(2020.3月)の法語は、

❛ 本当のものがわからないと 本当でないものを本当にする ❜

現在世の中ではコロナウィルスの関係で異変が起きています。マスクが著しく不足し大変なことになっているようです。

これに関連したデマも流布され、トイレットペーパーも不足する事態になっています。

スーパーやドラッグストアでは、マスクはもとよりトイレットペーパーも品薄になってしまっている状況があります。

メーカーの説明によると、マスクと異なりトイレットペーパーについては充分な在庫があり、供給(製造)についてもまったく問題がないということです。

しかしながら、デマを信じた人々が必要以上に買い求めるものですから、一時的にスーパー等での販売が追いついていないようです。

トイレットペーパーについては、普通にしていれば何の問題にもならないはずですが、どうしてこういうことになってしまうのでしょうか。

本当でないものを本当にしてしまっているのが原因といえます。

有事のときやピンチのときこそ、その人の本当の姿が如実に現れてくるものです。

デマに惑わされ、本当でない情報に振り回され、流行やその場の空気に流されてしまう。

周囲が右に行けば右になびき、左に行けば左になびく。

つまらないことです。

大乗寺(石川県)

 脚下照顧 ”という禅語があります。

お寺の玄関などでよく目にする言葉ですが、自分の履物をきちんと整えなさいという意味です。

さらに、脚下とは履物にかぎらず、人としての生き方において、自分の足もと、立ち位置をしっかりと見つめなさいというのが本来の意味になります。

何が本当なのかを知るためには、まずは自分の足もと(脚下)を照らし、自分自身を顧みてみることが必要です。

本当のものとは…

「トイレットペーパーは不足していない」という事実ではありません。

根拠のない不確かな情報にすぐに飛びつき、右往左往している愚かな自分の姿そのものです。

それこそが真実であり、本当でないものを本当にしてしまっている張本人と言えます。

 

聖徳太子は、

世間虚仮 ” (せけんこけ)ということばを残しました。

世間は仮うつろなものということです。

そんな世間であるからこそ、本当を見極める「眼」が必要となってくるのです。

世間とは仮の姿であるという意識を常に頭の隅っこに置いておくと、世の中の動向に無用に流されるということもなくなるでしょう。

世の中に何かが起こっても、いったんそこで立ち止まり、それが虚仮なのか真実なのかを見極めるという所作が自然と身につくようになります。

マスコミなどの報道内容に対して、「自分」というフィルターを通して「観る」作業ができるようになります。

ちなみに太子はこれに続けて、

唯仏是真 ” (ゆいぶつぜしん)と言っています。

唯(ただ)、仏のみがこれ真(まこと)であると。

デマが流れ飛ぶこんなときこそ、仏さまのお姿や、仏の教えに触れてみるのもイイでしょう。

仏さまから智慧をいただきましょう。

そしてその智慧を、自分自身のフィルターの「眼」として活用していけばよいのです。

 

真(まこと)は何か。

世間が虚仮であるならば、仏の眼で見れば、世間の常識は実は非常識なのかも知れませんよ。

この点、心していきたいものです。

 

自分は本物なのか…

それとも偽物なのか…

脚下照顧、まずはそれを知ることが肝要です。

 

最後に、法句経(ダンマパダ)にある二つの言葉です。(出典 『ブッダ 真理のことば』 中村元訳)

十一

まことではないものを、まことであると見なし、まことであるものを、まことではないと見なす人々は、あやまった思いにとらわれて、ついに真実(まこと)に達しない。

十二

まことであるものを、まことであると知り、まことではないものを、まことではないと見なす人は、正しき思いにしたがって、ついに真実(まこと)に達する。

 

新型コロナウィルスは私たちに何を語りかけ、何を教えてくれているのでしょうか。

タイムリーな時期に、タイムリーな法語をいただきました。 

令和2年弥生  

何をしでかすかわからない、それが自分なのです

ロンドンブーツ2号の亮さんが謝罪会見をされました。

とてもいい会見だったと思います。

やはり「正直」というのは人の心に響くものがあります。

人は、生きているとさまざまな失敗をしてしまうものです。

特に、好調な時ほど危ない。

そこには自惚れ、驕り、思い上がり、慢心などがあるからです。

あ〜あ、やっちゃった・・・

と思っても、気付いたときには後の祭り、ということも多いのではないでしょうか。

やってしまったこと、起こってしまったことはどうにもなりません。

ならば、自分自身のバカダメさをよくよく認識し、正直に告白し反省していくしかありません。

 

さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし

という言葉があります。

これは親鸞聖人の語録をまとめた書物 『歎異抄』 第13条の中の一節です。

人は、始まりのない過去から現在まで、自分がしてきた様々な「業」(行い)に起因し、自分を取り巻く「縁」によっていかようにも行動してしまうという、

人間の性と業の深さを語っているように思います。

学問を積み、精神修養に励み、善行に努め、自分を勘定に入れないような生き方をしているような、周囲には「素晴らしい人」「奇跡の人」に映っている人であっても、その本質は、実のところ、その時に置かれた環境によっては、

いかなる振る舞いもしてしまう、何をしでかすかわからない、何を言いだすかわからない、

そんな煩悩具足の危なっかしい生き物が人間であり、自分なのです。

親鸞聖人はそのことを見抜いていたのです。

  

ならば、バカダメの自分を認めてしまえばよいのです。

格好なんてつける必要はありません。

なぜならバカダメな自分の姿は、阿弥陀様の眼から見るともうバレバレだからです。

全部見抜かれちゃってます。

過ちや間違いをしてしまうのが人間です。 

でも救いはあります。

あ〜あ、の出来事について、今後の教訓として生かしていくとともに、謙虚な心で生きていけばよいのです。

こういうときの処方箋は、「日々を切に生きる」ということなのかも知れません。爾後、

美しい緑のカメムシ

己の弱さ、ダメさをいつも心にとどめて過ごしていれば、思い上がりや傲慢さは影をひそめていくのでしょう。

その結果、自分の所作がしゃんっとしてきます。

人に対して優しくなります。

他人の過ちを責めることもできなくなります。

静かに呼吸を整え、日々を清々しく過ごしていれば、

やがて人生は好転していくのでしょう。

 (ただし、すぐには変わりません。しばらくは待たないとダメです。)

 

それでいいのではないでしょうか。

というか、叩けば埃だらけの自分ですから、そうやって生きていくしかないですね、もう。

時に強烈な匂いを放つカメムシにも、美しい側面があります。  

 

最後に、マザーテレサの言葉です。

 この世で大きなことはできません。

 小さなことを大きな愛で行うだけです。 

令和元年 文月  

マユゲ猫とメールの怖さ

マユゲ猫

これまでスマホのLINEというのをやったことがありません。

Twitter や Facebook、Instagram についても無縁です。

知人や友人などとの私的なやりとりは通話かメールで行っていますが、

電話だと先方の都合もあり話ができない場合がありますので、主にメールを利用しています。      

メールの利点としては、まず「情報」や「連絡」の伝達には非常に適しています。

その他、普段面と向かっては伝えにくいこと、例えば、照れくさくて言えないこと、緊張して言えないこと、内々の心の有り様、等々、自分の考え方や想いなどを文字や文章として表現することで、時として、それをより正確に伝えやすいという側面があります。

但しそれには、「それがきちんと伝われば」という条件が必要です。

 

ほんの30年前、まだ人々に携帯電話が普及していない頃、メールでのやりとりというのはありませんでした。

人々は、おもに電話での会話や、あるいは手紙という手段を用いていたのです。

当時はそれが当たり前でした。

電話は、相手の表情は見えないものの、言葉の抑揚やニュアンスが直接感じられますから、その場で正確な感情がそのまま伝わりやすいです。

手紙もいいですね。特に自筆のものは。

相手の心と温もりが感じられますから。

そういう古き良き時代があったのです。

 

現代はLINEやメールが発達して、簡単に、素早く伝達できる手段ができたことにより、確かに便利にはなりました。

しかし、怖さもあります。

単なる情報や連絡のやりとりは別としても、メールによる意思疎通は、表情が見えない、声が聞こえないことによって、相手が受けるその言葉や文面の感じ方は、自分(送信側)の意図とは別の方向に作用してしまう怖さがあります。

自分の真意 ≠ 相手の受け取り方

メールでのやりとりでは、この図式は、実は特別なことではないのかもしれません。

顔が見えない、声が聞こえない、そんな文字や文面だけの表現方法は、その捉え方は相手次第ということです。

それを補う形で、絵文字や顔文字というのもありますが、それにも限界があるように思います。

やはり、心と感情がある人間同士のやりとりですから。

人の気持ちや心うちだけは、単なる文字づらを並べたところでわかり得ない部分もある、ということを常に意識しておく必要があるのでしょう。

 

世の中が便利になると、そこに傲慢が生まれます。

無自覚に流行や便利さにかまけていると、時に大きなしっぺ返しがきます。

人間生活の原点は、古きよき時代にあったのかも知れません。

マユゲ猫もそう言っているように思えます。

ニャ〜。

令和元年 水無月

 見返りを求めるところに「美」は生まれない

秩父札所十五番 少林寺

このお寺には五葉禅会という坐禅の会があり、毎月15日の朝6時から坐禅が行われています。

私もこの坐禅の会に平成22年から参加していますが、お正月やお盆の月にはお寺から参禅者にちょっとしたプレゼントがあります。

今月(8月15日)いただいたプレゼントは団扇です。

このお寺のご住職である井上圭宗和尚のお師匠様が臨済宗建長寺派管長の吉田正道老大師ということで、毎年、ご老大師が書かれた禅語の団扇をいただきます。

今回の団扇には、花木鶯吟とあります。

その意味は、鶯(うぐいす)は、花が咲きほこり、木が生い茂っているところで口ずさむ、ということです。

花や木は、何の見返りも求めず、ただただ力いっぱい自分のすべきことを愚直に実行する。

そんな美しい姿があるところには自然と鶯が寄って来て、草木の美しさにさらに美声を添えていく、ということのようです。

裏を返せば、いつも損得勘定ばかりを考え、ガツガツ、ギラギラした様相のところには鶯も寄ってはこないということになりそうです。

ここでの鶯は比喩で、人間を含めたあらゆる生き物と考えていけばよいでしょう。

損か得か、win-winか、などという考えを巡らしているうちは鶯も近づいては来ませんということです。

無意識の give-give が禅の世界です。

 

以前ご紹介した、曹洞宗前貫主であった亡宮崎奕保禅師も似たような趣旨のお話をされていました。

見返りを求めないところに真(まこと)の美しさが宿るということです。

 

私が尊敬する中村哲医師は、まさにこの美しさのあるお方です。

カッコいい人間になりたいものです。← こんなことを思っているうちは、私もやはり甘ちゃんです。 

なぜなら、草や木や鶯は、そんなこと考えてはいないでしょう。

中村医師も考えてはいないでしょう。

「カッコよくなりたい」などという自意識は、即ち自分に執着していることの現れです。

もっともっと坐らなければいけません。

 

住職さんはこんなお話もされました。

坐禅は人の一年と同じだと。

坐禅を長時間していると足が痛くなってきます。

ときにははち切れんばかりの激痛をともないます。

しかし、坐禅が終わるといつのまにか足の痛みも消散し、何事もなかったかのように普通に過ごします。

 

これは人の一年(あるいは一生といってもよいのでしょう)と同じで、人生、山あり谷あり、谷のときもあれば山のときもある、ずっと谷が続くわけでもなし、ずっと山が続くわけでもない。

生きるということはそういうことなのだ。

結局は、諸行(もろもろの事象)は無常(たえず変化し移り変わる)であるという根本に行きつくのだ、と圭宗和尚はおっしゃいました。 

お盆の早朝、団扇とともにとてもありがたい法話をいただきました。

平成二十九年葉月

 うそが言えない

最近、ある詩を知りました。

曹洞宗の短冊型ポスターに書いてあった文言ですが、相田みつをさんの詩の一節のようです。

その人の前に出ると 

絶対にうそが言えない

そういう人を持つといい

含蓄のある言葉です。

 

絶対的な信頼を置いている人、もうその人の前では自分のすべてをさらけ出せてしまう、そんな人のことでしょうか。

その人の心の美しさや清らかさを眼前においては、もう何も取り繕う気にはなれない、うそをつこうとしている自分に恥ずかしさを感じてしまう、そんな人のことでしょうか。

あるいは、どんなうそをついたとしても、もうこの人にはすべてわかってしまっている、そんな鋭い眼力と洞察力を持ち、一言でいって「かなわない」と思えてしまう人のことでしょうか。

ポスターの「そういう人」は観音様です。

なるほど、なんとなくわかるような気がします。

慈悲と慈愛に満ちた観音さまには、もう、うそをつく気にはなれません。

あなたにはいますか?

そういう人を持つといいようです。 

平成二十九年 文月


上記の一節は、相田みつをさんの『その人』という詩のなかのものです。

せっかくなので、『その人』の全文を取り上げてみたいと思います。

  

その人

 

その人の前にでると

絶対にうそが言えない

そういう人を持つといい

 

その人の顔を見ていると

絶対にごまかしが言えない

そういう人を持つといい 

 

その人の眼を見ていると

心にもないお世辞や

世間的なお愛想は言えなくなる

そういう人を持つといい 

 

その人の眼には

どんな巧妙なカラクリも通じない

その人の眼に通じるものは

ただほんとうのことだけ

そういう人を持つがいい 

 

その人といるだけで

身も心も洗われる

そういう人を持つがいい

  

 人間にはあまりにも

 うそやごまかしが多いから

 一生に一人は

 ごまかしのきかぬ人を持つがいい 

 

 一生に一人でいい

 そういう人を持つといい

                   出典 『にんげんだもの』 文化出版社

 ある日の出来事

人間生きていると、ときおりビックリ・ホッコリするようなことに出会います。

そしてそれは、時に人を幸福な気持ちにさせてくれたりします。

これは、28.11.18 の仕事中に、今や貴重なカールチーズ味を食べていたときに出てきたものです。

あれっ?

なんか形が違うぞ!?

と思い記念に写真をとっておきました。

調べてみると、これはカールの中でも超激レアの「ケロ太」といわれるものだそうで、ケロ太に遭遇する確率はなんと!0.018% ということです。

100袋に1個という話もあって、とにかくとてもとても貴重な出来事であったことにはまちがいありません。

今や関東地域では販売中止でカールを買うことができなくなってしまったため、さらに貴重な体験だったということでしょう。

おそらく自分の今後の人生でもケロ太に出会えることはないのでしょう。

次に、本日(29.10.7)出会った双子の卵です。

目玉焼きを食すために、フライパンにふと落とした卵、もちろん1個の卵です。

ところが落ちた中身は、なんと双子だったのです!

目玉が二つ!

うぉぉぉ〜

おもわず叫んでしまいました。

こういうのがあると、あ〜、人生って楽しいな〜、と思いますね。

フランク・キャプラ監督もびっくりだと思います。

なお、同監督の「或る夜の出来事」も good! です。

平成29年 神無月 

つくべき縁あればともない、はなるべき縁あればはなる

若き親鸞が「聖徳太子の夢告」を受けたとされる京都六角堂 

タイトルの言葉は『歎異抄』第6条の一節ですが、ここでは人の「縁」について触れています。

第6条における背景はこうです。 

親鸞聖人の弟子に信楽房(しんぎょうぼう)という人がいたのですが、この人が、どういうわけかある日師匠の親鸞を見限って他の坊さんの弟子になってしまいました。

当時は、弟子が途中で師匠をとりかえるケースが結構あったようです。

ところで信楽房という人は、それまで師匠の親鸞さんからは非常にかわいがられていたとみえて、たとえば聖人が直筆で書いた「南無阿弥陀仏」の六字の名号とか、あるいは聖人直筆の手紙とか、あるいは浄土三部経の解説書だとかをいっぱい持っていました。

ところがその信楽房が聖人のもとを去る際に、これら御真筆を諸々携えて出て行ってしまったわけです。

そこで聖人の他の弟子たちが憤慨し、

「先生、あれらを取り返しましょう。あの野郎は先生を裏切って出て行ったんだから、御真筆などを預けておくことはありませんよ。取り返しましょう。」と言った。

そのときに親鸞聖人が答えた言葉とされるのが、この第6条なのです。 

 

そこで親鸞は何と言ったか。

念仏をもっぱら行じている仲間のなかで、これは私の弟子だ、あれはひとの弟子だなどという論争があちこちで起きているが、それはとんでもないことである。

私には弟子など一人もいない。

私の力で人に念仏をさせているのであれば、その人は私の弟子だということにもなるかもしれない。

しかし自分の力で人に念仏をさせるなどということは、できることではないのだ。

私の教えを受けて念仏を唱えている人がいるとしても、それは私の教えを受けたからではなしに、阿弥陀如来のお力によって念仏を唱えているだけであって、私は、そういう弥陀の力という凄いものがこの世にあることを取り次いであげたにすぎないのだ。

つまり、世に念仏のともがらの弟子と言われている者たちは、すべて阿弥陀如来の力によって念仏を唱えているだけなのであって、弥陀の弟子ではあっても、自分の弟子などということは、誠に心が寒々となるとんでもないことだと。

 

親鸞聖人は自力というものを徹底して否定される。

何事も自分の力でやっているという意識はないんですね。

すなわち人々が念仏をするのは、決して親鸞自身の力で教え導いたからではなくて、

それはあくまで「弥陀の御もよおし」(=他力)なのだと。

だから自分は師匠でもなんでもないから、したり顔でわが弟子などということは大変な心得ちがいだというのです。

いいですねぇ。 自分には弟子など一人もいない!と言いきっちゃうわけです。

「心が寒々となる」(原文では「きわめたる荒涼のことなり」)という表現は、聖人自身の気持ちを如実に象徴していると言えます。

聖人は信徒に対して「御同朋」「御同行」としてひたすら平等に接しておられたのです。

正しい信心さえも持てずに、信徒を弟子あつかいするなどもってのほかであり、あさまし、あさまし、ということなのでしょう。

師匠だなどという思いあがりや奢りの意識を厳しく批判するわけです。

 

そしてその次に出てくるのが表題の言葉です。

 つくべき縁あればともない はなるべき縁あればはなる ’ 

要するに人と人との出会い、あるいは別れというのは、所詮は「縁」であるというのです。

仏教ではその教えの根本として、すべての事象は縁によってもたされているのだと考えます。因果の法則です。

ある師匠の下にある弟子が来るというのも「つくべき縁」があったからであり、またある弟子が師匠の下を去るのも「はなるべき縁」があったからのなのです。

これは師弟の関係に限らず、家族、夫婦、友人、知人、仕事仲間、etc.、

すべての人間関係においても同様のことが言えるのでしょう。

 

私も仕事柄いろんな人に出会いますが、ずっとお付き合いさせていただいている人とはやはり「つくべき縁」があったからなのでしょう。

逆に、一時は私の事務所に出入りしてた人が今はさっぱり姿を見せなくなった、という人もいます。いいではないですか、それで。

そういう人は、やはり「はなるべき縁」、つまり離れていく条件が整ったので離れていっただけなのです。

すなわちその人は、本来うちの事務所とは因と縁がなかったにもかかわらず、どういうわけか、何かの間違いで私の事務所に入って来てしまったのですから、いずれ必ず離れていくものなのです。これが真相です。

とかく人間は、ある人が自分の下を去ったり疎遠になったときにはトサカに来たり落胆したりするものですが、これも全部「はなるべき縁」だったのだと考えれば「あー、そうか」で済んじゃいますね。水のようにサラサラと生きることができます。

 

さらに6条の結びとして、親鸞聖人はこうおっしゃる。

如来よりたまはりたる信心を、わがものがほに、とりかえさんと申すにや。かへすがへすもあるべからざることなり。自然のことわりにあひかなはば、仏恩をもしり、また師の恩をもしるべきなり。

<意訳>

阿弥陀如来から頂戴した信心を、まるで自分が授けたものだという顔でこれを取り返えそうとでもいうのか。このようなことは絶対にあってはならないことだ。

去っていったあの信楽房も、いずれ自然法爾(じねんほうに)の真理がわかってくるであろう。そのときにこそ、信楽房は阿弥陀如来の恩を自覚し、また本当の師匠の恩というものを知るはずだ。

だからあえて取り返す必要はない。放っておけ。 

※自然法爾 : 親鸞聖人が90年の生涯において最後に到達された境地で、自分のはからいを捨てて、阿弥陀如来の本願にまかせきること。つまり、大いなる仏のはたらきかけに自分の身も心もすべて委ねるということ。

 

なるほど、すごい境地です。

人知を超えた大いなる存在にすべてを委ねて生きていく。

ここで注目すべきは、親鸞は自分のもとを去った人間を決して見放してはいないのです。

ともに念仏を申す間柄であれば、いずれ信楽房も恩義というものがわかるはずだという、聖人の大らかさと深い愛情が感じられます。

現にその後、信楽房は改心して親鸞のもとに戻り、門弟二十四輩に名を連ねる程になっています。

ところで「大いなるもの」とは、阿弥陀如来に限らず自分が信じるものでいいのです。

仏様でも観音様でもお不動様でも、大日如来でもお薬師様でもお大師様でも、天照大御神でもイエス様でもアッラーの神でも、とにかく身も心もはなち、小賢しい自分のはからいをすべて捨てて全部をおまかせし、その大いなるものの御うながし、御もよおしのまにまに生かさせていただく。

私の場合は観音様でありまして、自分の命も、人とのご縁も、仕事も思考も行動も何もかも、もう全部をおまかせして日々を過ごしています。

そして観音様は、きっと、私にとって最も良い道を選択され、導いてくれていると信じています。

そう信ずるほかに別の子細なきなり、なのであります。 

平成二十九年 皐月 

永平寺の参道入口

 今から770年前,福井県の山間の地 永平寺にて発祥した曹洞宗,この開祖である道元の語録をまとめた書物に『正法眼蔵随門記』(しょうほうげんぞうずいもんき)というものがあります。

これは,鎌倉時代に道元禅師が日頃しゃべった話を筆録した書物でありますが,書いてあることは,現代社会に生きる私たちにとっても非常に有益であり,

「人間いかに生きるべきか」という生きる指針ともなりうる名著といえるでしょう。

この書から伝わる道元禅師の気迫は今なお色あせることなく,一つ一つの金言は,私たちの日常において絶えることのない悩み,苦しみ,心配ごとなどを喝破し,生きる気力と,進むべき道を示してくれるものです。

そしてこの随門記は,現在の私自身の座右の書でもあります。

 

その書の一節に、愧づべくんば明眼の人を愧づべし」 とあります。

(面山本 六の一,長円寺本 一の一)

‘明眼’(みょうげん)ですが,文字どおりストレートに読むと,「明るい眼」「澄んだ眼」ということになります。

さらに一歩進めて,この文字の背後にある本質を読み取ると,「物事の道理を見通せる人」ということになりましょうか。

つまり,ストレートに解釈すれば,他人から何か批判を受けた場合は,まずその人を眼を見なさい。

そして,その眼が明るく澄んでいる人からの批判のみを自分の恥と思いなさい,ということです。

言いかえれば,批判者の眼が暗く濁っていたら,そんな批判は気にしなくてもよい,ということになります。

さらに本質的な意味で考えてみると,人からの批判を気にするなら,物事の道理を見通せる人からの批判だけを気にするべきである,ということです。

 

この格言を知って以来,私も日常生活において‘ 明眼 ’というものを意識するようになりました。

批判に限らず,とにかくその人の「眼」の奥底をじーっと見るようになりました。

澄んでいるか濁っているか。 

さらにその人の言動においても,明眼という観点からいろいろ考察することにしています。 

つまりその人の行いが,自己の存在や地位を誇示するためのものであったり,人を貶めるためであったり,あるいは,時の権力へのおもねりや自己保身であったり,つまらない世間の常識なるものや,先入観や世間体とか噂話とか,あるいは単なる損得勘定や我欲によって動いているのか否か、をです。

その結果,その人の行いがこのようなものであると思ったときは,そんな人からの批判などは取り合わないでよいということです。 逆に,

物事の道理をきちんと見通せる眼を持ち,己の損得を離れ,私利私欲を離れ,あらゆる差別を否定し,弱者の立場でものを考え,雨ニモマケズにある「自分を勘定にいれず」に生きているような明るい澄んだ眼の人の意見については,有り難い指摘として素直に受け入れ内省せよということです。

例えば,ホセ・ムヒカ元ウルグアイ大統領から何かの苦言を呈せられときは,いったん自分の行いをよく見つめ直し,元大統領の言葉をかみしめてみることです。なぜなら,この方は「明眼」といえるお方だからです。

「愧づべくんば明眼の人を愧づべし」、ズシリときます。

正法眼蔵随門記 には,この他にも道元禅師のたくさんの金言が書いてありますから,興味のある方はご一読ください。人生が変わるかもしれません。

 

最後に,永平寺の前々貫主であった宮崎奕保(みやざき えきほ)禅師の言葉です。

(1929〜2008 享年108歳にて遷化,禅師号は「黙照天心禅師」)。

自然は立派やね

わたしは日記をつけておるけれども

何月何日に花が咲いた

何月何日に虫が鳴いた

ほとんど違わない 規則正しい

そういうのが 法だ

 

法にかなったのが大自然だ

法にかなっておる

だから 自然の法則を真似て人間が暮らす

人間の欲望に従っては 迷いの世界だ

 

お釈迦様の教えといういうものは

大自然を体とし 大自然を心としたいわゆる経験者

それを仏と言うんだ

死んだ人間を仏と言うんじゃない

 

そして いわゆる大自然というものは  

かえて言うたならば 真理だ   

 

その真理を黙って実行するというのが 大自然だ 

誰に褒められるということも思わんし

これだけのことをしたら これだけの報酬がもらえるということもない

 

時が来たならば ちゃんと花が咲き

そして 褒められても 褒められんでも 

すべきことをして 黙って去っていく

そういうのが実行であり 教えであり 真理だ 

 

人に褒められたい,金が欲しい,自分を大きく見せたい,努力したことを言いたい,・・・。

とかく人間は己の欲や損得で生きてしまう凡夫ですが,そうではなくて,自然から学ばなければならないことがたくさんあるようです。

「明眼」とは,陰徳陽報,すべきことをして黙って去っていく ということのようです。

 

平成二十八年 弥生  水無月(追記)   

 四国のお遍路について

平成21年の夏に四国八十八ヶ所を歩いて遍路した経験があります。総日数は36日間でした。

札所巡りは、すでに西国,坂東,秩父の百観音を経験していました。

そこで四国の88ヶ所は是非歩いておかなければと思っていましたが,仕事をしているとそうそう長期間の休みを取ることができません。

勤務司法書士として約3年半務め,そろそろ独立しようと思い退職した際に,四国のお遍路をできるのは今しかないと思い四国へ向かいました。

これから独立開業して司法書士をしていく上でも,その前にどうしても四国は廻っておかねばならないだろうとも思っていました。

これは四国を歩くことで,絶対に今後の仕事や人生に役立つであろうとの確信みたいなものがあったことによります。 

そして現在思うことは,当時の確信にまちがいはなかったということです。

 

お遍路中の筆者
(54番延命寺にて)

私がお遍路したのは真夏の暑い時期でしたが,あの、毎日滝のように流れ落ちる汗を拭いながら、ひたすら歩き続けた36日間の経験は,私自身,たくさんの「心」「気付き」を得たような気がします。

そしてその心と気付きは,現在の仕事や日常生活の中でかけがえのないものとなっています。   

 

お遍路をする際にかぶる管笠には次のように書かれています。

迷故三界城  悟故十方空  本来無東西  何処有南北

“ 迷うが故に三界は城  悟るが故に十方は空  本来東西は無く  何処にか南北あらん ”

と読みます。

迷い(煩悩)があるからこの世の至るところに欲望の城があるが,悟ってしまえば、十方は広々として何のさまたげもない空(くう)の世界だ。

もともと空の世界に東も西もない。

どこに南や北があるというのか。

という意味です。

迷いの根源は実は己自身にあるのであって,本当の世界は,何も遮るものはなく自由自在だということでしょうか。

なお,「空」(くう)とは,般若心経にある「空」のことです。

すなわち,「かたよらない心、こだわらない心、とらわれない心、ひろく ひろく もっとひろく これが般若心経 空の心なり」(高田好胤 元薬師寺管主)ということです。

「空」の心がしっかり自分の腹に納まると,一切の苦厄から自らを解放することができるというわけです。

 

四国八十八ヶ所をお遍路する人を,親しみを込めて「お四国さん」などと呼んだりします。

そして歩き遍路をしていると,たくさんの方からお接待を受けます。

道案内はもとより,お菓子やお茶・ジュースの提供,善根宿や通夜堂などの宿泊所の存在,あるいはお金をいただいたり,車による移動の提供など,さまざまなお接待を受けます。

これらのお接待を自分自身の中でどのように捉え考えていくのかというのも,お遍路をしていくうえで大切なことなのかもしれません。

私は,お接待は絶対に断ってはいけないものだと考えていましたので,有り難くすべてお受けしていました。

なぜなら、人々がお遍路さんに「お接待をする」という動機の中に,提供者の方の「想い」が込められているからです。

つまりその想いとは,「お遍路さんをもてなすことで自らの功徳に繋がる」,あるいは「自分は廻ることができないから,私の分までお参りして拝んできて欲しい」という,ある種の信仰心にも似たものなのかも知れません。

そのような人さまの大切な想いというものを,自分自身のエゴによって無にしてはいけないのだとも思っていました。

そもそもお遍路や巡礼とは「己を捨てる」ことが大きな目的ともいえますので,大自然の摂理にしたがい,すべてを受け入れて進んでいくことが大切なのではないでしょうか。 

 

四国霊場は,徳島が「発心の道場」,高知が「修行の道場」,愛媛が「菩薩の道場」,香川が「涅槃の道場」と,人生にたとえられています。

山あり谷ありですが,私がお遍路していたときは,楽な道と険しい道があったときは,険しい道をあえて行くようにしていました。

せっかくお遍路しているわけですから,漠然とですが,そうした方が自分のためにはよいのだろうと思っていました。  

道中トマト

」「同行二人」(どうぎょうににん)といいまして,遍路や巡礼時に身につける管笠や杖なんかにこの文字が書かれていますが,これは決して一人ではないということです。

「二人」とは,一人は自分,もう一人は目には見えない「大いなる存在」ということです。

大いなる存在とは,四国遍路の場合はお大師様,西国・坂東・秩父の巡礼では観音様ということになります。

つまり「行」では,常に二人,いつでもどこでも傍でお大師様や観音様が護ってくれているということです。とても心強いです。

大いなる存在は目には見えませんからイメージしにくいですが,歩いているとその存在を肌で感じることができます。

確かに護ってくれているなと。いいもんです。

この感覚は実際に歩いた人でないとわからないのかも知れません。

車やバスで廻っていても実感できないのでしょう、たぶん。

 

四国を歩いて遍路した経験は,私にとってはかけがえないのないものだったと思います。

すべて歩くと1100km〜1200km,だいたい東京から熊本くらいの距離ですが,八十八番札所を終えたときには,杖が15㎝ほど短くなっていました。

駅やバス停,河原などでの野宿経験や,歩き遍路中の仲間との一期一会の出会いもいい思い出です。

四国は,機会があれば何度でも歩きたいと思っています。

※ 「迷故三界城 悟故十方空 本来無東西 何処有南北」の出典は、

  無着道忠禅師の著書 『小叢林清規』の中巻第五 送喪儀在家送亡 になります。

平成二十七年 卯月  

 観音さまのお話

秩父といえば何でしょうか。

秩父神社,夜祭り,温泉,そば等いろいろありますが,忘れてはならないのが秩父三十四ヶ所観音霊場ではないでしょうか。

西国三十三ヶ所,坂東三十三ヶ所とともに,日本百観音に数えられている由緒ある観音さまの街ということでしょう。

西国が近畿一円7県,坂東が関東一円7県にまたがった札所なのに対して,秩父は秩父地域において三十四ヶ所の札所すべてが置かれていることからしても,まさに秩父地域が観音さまの霊場というのにふさわしい町といえます。

現在も季節を問わず,全国各地から老若男女,観音さまを拝みにたくさんの人たちが秩父を訪れています。

最近は,秩父が「あの花の名前を僕たちはまだ知らない」というアニメの舞台になっている関係もあって,多くの若者が秩父を訪れ,あの花の舞台になっている17番定林寺も若い人たちで賑わっています。

一見信仰心には無縁と思われる若者が,ご本尊の観音さまに手を合わせている姿はとてもいいものです。

どんなきっかけであれ,虚心になって静かに祈りをささげる姿は,やはり尊いものを感じます。

私も観音さまが大好きで,秩父でこの仕事をしているのも,実は観音さまがきっかけであったという事情によります。

「観音さまの心」にあやかって仕事をしていきたいとの思いからです。

毎日,どこかの札所にお参りして観音さまを感じ、会話をしています。

仕事がら法務局に行くことが多いのですが,法務局のすぐ近くには17番の札所がありますので,法務局に行くときは必ず17番の十一面観音に手を合わせています。裁判所や市役所に行くときは13番の聖観音,その他16番の千手観音や14番の聖観音に立ち寄ることが多いです。

ところで観音さまとは「観世音菩薩」の略で,観世音とは,読んで字のごとく「世の音を観る」ということです。

世とは世人,すなわち私たち衆生のことで,音とはその衆生(世人)の声,つまり私たちの声を観て下さるということです。

 

一般に音は聞く(聴く)ということになりますが,観音さまはさらに一歩進んで音を観ているのです。

音を聞くというのが,単に我々人間が耳という肉体的聴覚によって音をとらえることを言うのに対し,音を観る」とは,心をもってその音(声)の本質を洞察することを言います。

 つまり観世音菩薩とは,私たち人間の悩みや苦しみに,たえず,どこにいても,「心をもって」観てくださる菩薩ということになります。

「観音さま,助けて下さい!」と祈れば,たちまちに助けに来てくれるとてもありがたい仏さまです。

このような観音さまの妙智力がよく「世間の苦を救われる」ので,観音さまの別名を施無畏者」ともいいます(妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五)。

施無畏者とは,無畏を施す者という意味で,一切の畏れを無くしてくれる,つまり,私たちの不安や心配ごと,恐怖心というものを取り除いていくれる者ということです。

坂東札所23番の東京浅草観音(浅草寺)の外陣と内陣の間にも「施無畏」と大書された額がかかげられています。

また,秩父札所4番金昌寺や10番大慈寺の山門、34番水潜寺の本堂入口上部にも,やはり「施無畏」と書かれた額があります(下の写真)。

札所4番金昌寺の施無畏の額

札所10番大慈寺山門の施無畏

札所34番水潜寺の施無畏の額

秩父札所の観音さまは,室町時代から現在に至るまで,地元秩父地域の人々はもちろん,全国の多くの人々から親しまれ,庶民の心の支えとして脈々と生き続けているといえましょう。    

平成二十六年 葉月  

メールによる法律相談をお受けしない理由

当事務所は,メールによる法律相談はお受けしておりません。

以前はしていたのですが,メールによる相談は情報が極めて限定的であり,またどうしても相談者と受ける側のやり取りが一方通行になってしまうため,お互いにとってあまり有益とは思えなくなったためお受けしないことにしました。

そのことについて少しご説明したいと思います。

 

法律相談を行う上で最も大切なことは,事実関係トラブルに至った状況の把握ということになります。

事案は各案件ごとに様々な事情によって発生していますから(1つとして同じものはありません。),ご相談者からこれらの事情をよく聞いて,事実関係の確認,それらを裏付ける資料(証拠)の有無や内容の検討,当事者間の人間関係,それぞれの考え方や感情面の把握,費用面の検討,等々,これらをもとに,総合的にご相談者にとって何が一番良い解決策なのかを考えていきます。

以上のような観点から,ご相談に対して法的面はもとより,解決の方法について「適切な回答」をするためにも,また,有益で早期解決の方法を提案するためにも,限定的な情報しか得られない個別案件についてのメールでの法律相談はお受けしていないのです。

メールによる法律相談で出来る範囲といえば,どの事案にもあてはまるような一般的,抽象的な回答に限定されるということです。

込み入った個別案件での法律相談は,どこの弁護士や司法書士もメールによる法律相談で適切な回答を導くことは困難と思われます(仮にそれが正解だったとしても,それは単に、「当たっちゃった」というレベルのものです。)。

きちんとした回答をしようと思えば,メールでの限定的なやり取りではあまりにも情報が不足し過ぎており、メールによる限定的な情報をもって適切な回答を導くことは難しいということが言えます。

場合によっては,誤った回答をしてしまう危険も大きいと言えます。

無料メール相談の注意書き等に,「回答内容については責任を持ちません。」とよく書いてあるのはこのような事情によります。

 

当事務所では,責任の持てない回答は初めからしないことにしているのです。

いい加減に回答しようと思えばできるかもしれませんが,当事務所は普段そのような仕事の仕方はしていませんし,また仮にいい加減な回答や誤った回答をいくらしたところでご相談者のためには決してならず,それはかえって失礼なことだと考えているのです。

また当事務所では,メールでアクセスしてきた相談者に対して,とりあえず呼び込んで集客に繋げていこうというような集客目的もまったくありません。 

お医者さんは実際に人の身体を見なければ病気やその対処方法を的確に判断することはできません。

患者さんからさまざまな聞きとりを行い,必要に応じて身体に触れ,表情を見て,いろいろな検査を経て病状を正しく判断するのです。

これが本当のプロのする仕事のしかたなのです。

通常,身体の不調を感じたときは,たとえ辛い体をおしてでも「病院に行かなきゃ」,きちんとした診断には結びつきません。メールによる病状診断が一般化していないのは当然の理です。

魚屋さんや八百屋さんで考えれば,市場で実際に魚や野菜の現物を見なければ,その素材の良し悪しを判断することができないのと同じです。   

以上のような理由から,実際にご相談を受ける場合は,やはり関係資料を持参して,直接面談によるご相談を申し込まれる方が,結果的によりよい解決方法に繋がるものと思います。 

ご自身の足と時間をつかって相談を受けにいけば,また,ときにはきちんと相談料を払って責任のある回答を求めていけば,少なくともメールで相談をするよりは,はるかに有益かつ効果的な助言を得られることは断言できます。 

電子メールはとても便利な面もありますが,法律相談にはあまり向いていないようです。

平成27年 如月    


平成27年5月、消費者庁は、

消費者の訪問勧誘・電話勧誘・FAX勧誘に関する意識調査」に関する調査結果を公表しました。(pdf)

この調査では、FAX勧誘については「全く受けたくない」と回答した人が96.2%だったということです。  

FAXによる勧誘行為については好ましくない側面が多々あり,平成29年12月1日から、通信販売において相手方の承諾を得ていないFAX広告を規制する法律が施行されました(特定商取引法第12条の5)。

この法律は、上記調査結果を受けて新設されたものとも考えられます。 

このように、FAXによる広告は、受信する側にしてみれば迷惑と感じる場合が多く、これを行うことは企業倫理の問題ということにもなり得ます。

 

1.<FAX-DMの問題点とは,迷惑の所以>

迷惑FAX また来たよ~

FAX-DMの一番の問題点は、問答無用でFAXを送信することによって受信者側の迷惑を全く顧みないということです。

FAX広告を受信する側のほとんどの人は迷惑に思っています。

なぜなら、望みもしない業者の宣伝広告のために,受信する側の資源(紙,トナー,コピー機のカウント)が強制的に利用されるのですから,迷惑以外の何ものでもありません。

AXDMで経費の大幅削減といいますが,ではその削減された経費は誰が負担するのかというと受信者側に他なりません。

FAXDMは他人のFAX機を借りて、その費用(紙、インク代)は他人に負担させたうえで自分の営業活動をしているとになります。

この点が、電話営業、郵便によるDM、メール広告などと決定的に異なった大きな問題点であり、FAXDMを受信した多くの人たちには迷惑感情不快感、場合によっては激怒に繋がる要因になってしまっていると考えられます。

 

まず、1)紙やインクの消費といった資源の損害が発生します。

次に、2)日常生活や業務が妨害され非常に鬱陶しい思いをします。

これは、電話とFAXを同一の回線で利用している場合は、度重なる迷惑FAXの受信中は電話回線も使用中になってしまう、また着信を意識的に留保したとしても何度も何度も繰り返し着信が続いてしまうからです。

上記1)2)がFAX-DMの問題点であり、迷惑といわれる所以です。

FAX-DMは、FAX代行業者自身がクレーム対策について触れていることをもっても、まぎれもなくクレームに繋がる広告手法ということなのでしょう

そして、受信側としては、単に「すみません」と謝ってもらったところで、現実に被った実損害が解消されるわけではないという実情があります。

 

2.<FAX-DMの効果> 

一般にFAXDMの反応率は 0.1% 〜 0.5% と言われています。

言い換えれば、99.5〜99.9%は無反応無反響ということになります。

仮に1000件送信して3件(0.3%)の反響があったとしても、残りの多くの受信者、少なく見積もっても8〜9割以上の受信者にとっては迷惑感情に直結してしまっているおそれがあります。 

それだけでも、世間に対して、自社の企業イメージを損ない低下せしめているといえるでしょう。 

1件の反響を得るために、その何100倍,何1000倍もの多くの大切なものを失い、信用を失い、反感を抱かせるという行為は、実は、その企業のイメージとしては大きなマイナス要因になってしまっているとも考えられます。   

すなわち、FAX営業(FAX-DM)をすればするほど、「当社は、反響を得るためには他人の迷惑なんて関係ありません。」ということを自ら大々的に宣言してしまっていることと同じなのです。

これは、会社経営を長いスパンで考えると完全にアウトなのではないでしょうか。

なぜならFAX営業は自社の信用を自ら著しく失墜させてしまうことに繋がりますから、これによって持たれた悪い印象や噂は、今後の会社経営にとっては致命傷になるおそれがあります。

即ち「自爆」(オウンゴール)をしてしまってるわけです。

よってFAX広告の効果としては、むしろ大きなマイナス感情に作用してしまっているとも考えられます

 

当事務所にも、とある東京の税理士法人からセミナーやら書籍やらのFAX広告が頻繁に入ります。

もちろん当事務所はその税理士法人に対して、FAX受信に対する承諾をした事実はありません。勝手にどんどん入ってくるのです。

しかもここは複数枚に及ぶ場合が多く、非常に迷惑でストレスが溜まります。

この法人にとっては、それが人様への迷惑行為に繋がってしまうという問題意識は何も持ち合わせていないのでしょう。

たとえ持っていても、そんなの別に知ったことではない、どこ吹く風なのかも知れません。

当事務所は、このような税理士法人とは一切の関わりを持ちません

もちろん、これらFAX宣伝のDMに反応するということも絶対にありません。

「他人の迷惑どこ吹く風」の企業や事業者、そんなところが提供する商品やサービスが、自分にとって有益なものになるとはどうしても思えないからです。

後で後悔するより、はじめから関わらないのが一番だと思っています。

この税理士法人には「このような営業方法はやめておいた方がよい」という感性を持つ人間が誰もいないのか?、いたとしても誰も指摘できない社風なのか?、と心配にさえなってきてしまいます。

このFAXDM一つをとってみても、この法人の企業姿勢というものがおよそ見当がついてしまいます。

自分の大事な税務を頼もう、任せようという気には到底なりません。

 

3.<FAX広告における倫理とは>

一方的に送信するFAX広告(FAX-DM)には、いくつかの問題があることは上記のとおりです。

FAX広告を「迷惑に感じている人が少なくない」という事実に疑いの余地はありません。

だから今回これを規制するための法律ができたのです。

とにかく,上記1)と2)について、「人様への迷惑行為」に直結するという自覚をきちんと持ち、これに謙虚に頭を働かせることです。

これが倫理観というものです。

「他人の迷惑どこ吹く風」という姿勢で生きていると、結局それは、自分自身に「不幸の風」となって返ってくるものです。  

FAX広告については、この企業倫理という側面を見落とすと大変なことになるということは肝に銘じておいた方よいでしょう。  

 

4.<営業の姿勢とは> 

企業の営業活動とは、その企業の姿勢や信用を得るための大変重要なファクターです。

企業は人であり信用です。

そして営業活動の基本は、自らの知恵を使い足を使い、汗を流し、そのようにして熱意と誠実さを顧客に伝え、こうした日々の地道な努力がやがて成果につながっていくのです。

FAXをぺらっと一枚流すような楽な仕事をしていて新規顧客の開拓ができるほど世の中甘くはありません。

そのような手法で集客に繋がるなら、多くの企業や商売人もやってるはずですが、大多数の企業等はそんな非常識なことはしてません。

目先の利益に惑わされることなく、「信用」という無形の財産を得る道を考えていくほうが賢明な道のように思えます。

受信者側の立場を無視し、自社の利益だけを追い求めるような姿勢に大きな問題があることが自覚できていれば、このような営業方法をとるはずがないと思うのですが、いかがでしょうか。

冒頭、「消費者の訪問勧誘・電話勧誘・FAX勧誘に関する意識調査」に関する調査結果をご紹介しました。(pdf)

FAX勧誘については「全く受けたくない」と回答した人が96.2% という結果です。  

即ち96.2%の人にとって「役に立っていない」「喜ばれていない」という事実をどう考えるのか、ここが、企業人としての「人となり」、即ち「企業となり」が如述に表れるところです。

迷惑FAXを受けた側は、この「企業となり」を冷静な眼で見ているものです。

その企業姿勢をもって、その企業の本質が見透かされてしまうのです

「この会社はこんな程度なのかと。

ここは送信側の真価(本当の価値)が問われているところですから、心していきたいところです。

 

基本に戻りましょう、基本に。 

本物の経営をしていきましょう。そして、

一企業として人々の役に立つような、人々に喜ばれるような業務姿勢を真摯に考え、社会貢献に一層取り組んでいけば、その企業はおのずと発展していくのではないでしょうか。

私はそう思います。 

 

5.<違法性の検討>

以上FAX広告について「企業倫理」の側面から検討してみましたが、平成29年12月からFAX広告に関する法律が施行されていますから、倫理の他にも、今後は「法律」という面での検討も必要となってきました。

法律面については、コンプライアンスを無視した営業手法を取れば,それは自らの信用問題に直結してしまいます。

法令さえも守れないような企業や事業者に、信用や信頼感を見出すことはできないからです。 

(※ コンプライアンス(compliance):企業などが法令や規則を遵守すること)  

FAX広告規制に関する「改正特定商取引法」の内容とその考察 ≫

FAX広告の規制に関する改正特定商取引法は、平成29年12月1日から施行されました。

今後FAXDMをはじめとするFAX広告をする際には法的に十分な検討が必要です。

 

今回改正された特定商取引法では、「承諾をしていない者に対するファクシミリ広告の提供の禁止等」という条文(第12条の5)が追加されました。

  そこで、今回創設されたファクシミリ広告に関する法規制の内容について、特定商取引法の条文を丁寧に検討し、

  •  FAX広告においてはどのようなケースが違法となるのか
  •  受信者の属性(個人・法人・事業者、等)によって違いがあるのか
  •  適用除外の考え方
  •  世間に流布されている様々な情報に対する心構え

等について考察していきます。

FAX広告規制に関する法律の考察は、FAX広告を規制する法律の内容とその考察 のページをご覧下さい。

FAX広告に関する違法性については「法律問題」です。(特定商取引法12条の5)

上記法律施行後、FAX広告をお考えの方は、その違法性の判断については、

規制に利害関係がない弁護士等の法律家へご相談をされ、法律家の見解を聞かれることを推奨します。

法律の解釈については、素人判断をしたり、業界関係者が言ったことを鵜呑みにするのではなく、第三者の立場にある法律家の判断を仰ぐ方がよいでしょう。

なぜなら法律家は、法律の読み方をきちんと学び心得ているからです。

自分自身を守るためには、それが最も適切かつ賢明な道であると考えます。

本記事の大きな目的は、一般の方に次のことをお伝えすることにあります。それは、

FAX広告に関する違法性については「法律問題」であるため、その違法性の判断については、この規制に利害関係がない弁護士等の法律家へご相談をされ、「法律家の見解」を聞かれることを推奨します、ということです。

平成29年12月に施行された改正特定商取引法では、「承諾をしていない者に対するファクシミリ広告の提供の禁止等」という条文(第12条の5)が追加されました。

そこで、FAX広告を規制する法律は特定商取引法になりますので、特定商取引法における対象条文を検討していきます。

 

  ≪ 基本的な考え方 ≫

原則 : 通信販売をする場合の、商品若しくは特定権利の販売条件又は役務の提供条件について、相手方の承諾を得てないファクシミリ広告は禁止(特商法12条の5第1項柱書)

例外(違法とはならない場合):

①特商法12条の5第1項第1号の場合

②特商法12条の5第1項第2号の場合

③特商法12条の5第1項第3号の場合

④特商法第26条所定の適用除外ケースに該当する場合

よって、今後通信販売に関するファクシミリ広告をする場合には、その送信が、上記4つのうちのいずれかの例外に該当するケースなのかどうかをよく検討していく必要があります。

 

≪ 特定商取引法12条の5 とは ≫ 

12条の5の規定は、あくまで「通信販売」のケースを念頭においたもので、すべてのFAX送信を禁止するものではありません。 

たとえば、業務として日常的に会社間で行っているFAXでのやり取りなどは通信販売とは無関係ですから、何ら法律に抵触するものではありません。 

「通信販売」とは,販売業者や役務提供事業者が、郵便・電話・FAX・メール等で売買契約や役務提供契約の申込みを受けて行う商品の販売や役務の提供のことをいいます。

H29のの法律改正で禁止されるのは、通信販売のうち、商品(※1)若しくは特定権利(※2)の販売条件又は役務(※3)の提供条件についてのファクシミリ広告です。

(※1)「商品」についての指定制は廃止されましたので、原則としてすべての商品が規制の対象となります。

(※2)特定権利の内容は特商法2条4項に規定されているものです。

(※3)「役務」についての指定制は廃止されましたので、原則としてすべての役務が規制の対象となります。

但し,次の場合は法律違反とはなりません。

①相手方の請求に基づき,FAX公告をするとき(特商法12条の5第1項1号)

②契約の申込みの受理及び当該申込みの内容,契約の成立及び当該契約の内容,並びに契約の履行に係る重要な事項を通知するのに付随してFAXによる公告をするとき

(特商法12条の5第1項2号,特定商取引に関する法律施行規則11条の8第2項)

③相手方の請求に基づいて,又はその承諾を得て送信される通信文の一部に掲載することにより公告がなされるとき

(特商法12条の5第1項3号,特定商取引に関する法律施行規則11条の9)

④特定商取引法26条所定の適用除外ケースに該当する場合

※ 特定商取引法12条の5第1項2号・同3号における「主務省令」とは「特定商取引に関する法律施行規則」を指します。

 

≪ 受信者が「個人」「法人」「企業」「事業者」かで違いがあるのか ≫ 

12条5の規定は、条文上、FAXの受信者については、単にその「相手方」としており,送信の相手方(=受信者)の属性を「個人」「法人」「企業」「事業者」等で区分はしておりません。

◎ 特商法第26条1項1号の適用除外の検討

ところで、同法26条では適用除外のケースを定めています。

特定商取引法は、一般消費者の利益を保護することを重要な目的として制定されていますので(同法1条)、この目的に直接関連しない場合には法の適用が除外されます。

たとえば、営業として行う商人間どうしの「商行為」の場合は、一般に取引に慣れた者どうしが当事者となりますから、消費者保護の規定の適用は不要であり、さらに、商取引は迅速性、安定性が重視されますので、クーリング・オフなどの取引の不安定要素はできるだけ排除して、取引の円滑化や安定性を図る必要があることなどが適用除外の理由です。

そして、取引の相手が「一般消費者」かどうかの判断は、同法26条1項1号においては、

その取引が、相手方にとって「営業のため」にする、若しくは「営業として」行うものか否かで決するのであり、取引の相手が個人か否か、法人や企業か否か、事業者か否かという単純な属性で決するものではありません。

即ち、購入者が法人や事業者であっても、それが営業のため、もしくは営業として取引に至ったものでない場合は適用除外にはなりません(後記消費者庁次長(通達)、判例参照)。

 

たとえば、八百屋を個人事業として経営しているAさんが、訪問販売によりプライベートで健康器具を買った場合に、「事業主」でもあるAさんの購入行為が、事業主であることをもってただちにクーリングオフができないとするのは妥当ではありません。

そこで特定商取引法は、「事業主A」さんという属性で区別するのではなく、Aさんにとってその取引(購入行為)が「営業のため」「営業として」のものかどうかで判断をすることにして、同法第1条の目的にある「購入者等の利益を保護」しようとしているのです。

八百屋業と健康器具の購入は通常は営業とは関係がありませんから適用除外にはならないでしょう。

一方、お店で使うレジスターの購入の場合は「営業のため」「営業として」と認定されるケースが多いでしょうから適用除外の方向に傾くでしょう。

また、取引の相手方が「純粋な個人」の場合は営業目的ということは通常は考えにくいですから、やはり適用除外にはならないケースが多いでしょう。

注意すべきことは、ここは個人」だからという理由ではなく、あくまで営業としての取引ではないからという立て付けになります。

個人であっても、個人事業主のように事業の一環として営業目的での取引をした場合には適用除外になり得ます。

ポイントは、相手方にとって、

(1)「営業のため」もしくは「営業として」の、

(2)「取引」に至っている

か否かであって、 個人、法人、企業、事業者等で区分するような法律構成にはなっていません。

このように、特定商取引法は「営業として」の「取引」か否かをもって「消費者性」を線引きし、営業として若しくは営業のために自己の意思によって取引を行った者については、消費者保護の対象から外しているのです。

根拠条文をきちんと読み込み、その条文の趣旨の理解に努めていけば、個人か法人かですみ分けをしていくことがいかにナンセンスなことであるかがお分かりいただけると思います。

平成29年11月1日付 消費者庁次長(通達) ← クリックで通達全文

特定商取引に関する法律の施行について

P.46  法第26条(適用除外)関係
(1) 法第26条第1項第1号について
 本号の趣旨は、契約の目的・内容が営業のためのものである場合に本法が適用されないという趣旨であって、契約の相手方の属性が事業者や法人である場合を一律に適用除外とするものではない。
 例えば、一見事業者名で契約を行っていても、購入商品や役務が、事業用というよりも主として個人用・家庭用に使用するためのものであった場合は、原則として本法は適用される。特に実質的に廃業していたり、事業実態がほとんどない零細事業者の場合には、本法が適用される可能性が高い。

名古屋高裁 平成19年11月19日判決

 特商法26条1項1号の趣旨は、契約の目的、内容が営業のためのものである場合には適用除外とするというのにとどまり、仮に申し込みをした者が事業者であっても、これらの者にとって、営業のためにもしくは営業として締結するものではない販売または役務の提供を特商法適用の除外事由とするものではないというべきである。

そうすると、同号が定める適用除外となるのは、申し込みをした者が事業者であり、かつ、これらの者にとって、当該契約の目的、内容が営業のためのものである場合ということになる。(判決理由の一部抜粋)

そこで、FAX広告の観点から同法26条1項1号を見てみると、適用除外ケースとして、売買契約又は役務提供契約において「営業目的」の「取引」となる場合を除外しているのであって受信者の属性(個人、法人、企業、事業者等)で扱いが変わる「法的な根拠」はどこにも見当たりません。

よって、あくまでFAXを受信する側が、営業のために若しくは営業として、申込みや、購入若しくは役務の提供に係る契約を締結する(した)ものでない限り、受信者の属性を問わず、26条1項1号所定の適用除外ケースにはあたらないものと解されます。

(送信者側についての事情ではありません。送信者が営業目的でFAXを流すことは当たり前のことです。)  

 

◎ FAXDMの送受信は「取引」といえるのか

特定商取引法12条の5「承諾をしていない者に対するファクシミリ広告の提供の禁止等」における「承諾」とは、言い換えれば、受信する側の「興味の表象」や「取引の意思」を意味しているともいえるでしょう。

このように、積極的に取引をしたいと考える当事者間のやり取りに、わざわざ法が介入する必要はありません。

ですから、FAX広告の「受信」につき「承諾をしている者」との間では規制をしないことにしているのです。

特定商取引法26条1項1号の条文   (法の適用が除外される場合)

売買契約又は役務提供契約で、第2条第1項から第3項までに規定する売買契約若しくは役務提供契約の申込みをした者が営業のために若しくは営業として締結するもの

又は購入者若しくは役務の提供を受ける者が営業のために若しくは営業として締結するものに係る販売又は役務の提供

特商法26条1項1号は、上記条文の構成から、相手方にとって、その契約の目的、内容が営業のためのものであって、その申込み契約の締結といった「取引行為」に至った場合を前提として、法の適用の除外を定めているものと解されます。

その趣旨は、自らの意思で、営業を目的として取引を行った者については、もはや「消費者」として保護をしていく必要がないからであると考えられます。 

そうすると、そもそも、自分が望んでもいないFAXDMを「一方的に受信させられた」という事実だけをもって、「申込み」や「契約の締結」という行為に至っていない場合には「取引」とはいえません。

つまりそこには、受信者側の積極的な「取引の意思」が何ら介在しておらず、受信者の責めに帰すべき事由が何も存在していない以上、法26条1項1号の趣旨から考えても、適用を除外すべき根拠が見出せません。

FAXの受信者は、単にFAX機を設置していただけであって、取引をする意思はもとより、現実の取引行為の実態もないわけですから、受信者側にとっては非となる事情が何もなく、特商法による保護の対象外とする理由を説明することは困難であると考えられます。

そしてこの理は、受信側の属性が個人か法人かで結論が異なることにはならないはずです。

 

FAXDMを送信する側でみれば、

(1)その広告の商品や役務、特定権利が、相手方(=受信者)にとって「営業のため」若しくは「営業として」の性質を有するものなのかどうか、

また、仮にそうであったとしても、

(2)その広告に対して「申込み」や「契約の締結」に至る「取引」行為に繋がるのかどうか

については、送信時点では全くわからないわけですから、(1)かつ(2)を見込んでFAX広告を無差別一方的に流す行為については少なからずリスクがあるようにも思えます。 

あくまで原則は、通信販売において相手方の承諾を得てないファクシミリ広告は禁止(特商法12条の5第1項柱書)になったということを再確認しておく必要があるでしょう。

※「消費者」の解釈については後述

 

≪ 世の中に流布されている「様々な情報」に対する心構え ≫

今般のFAX広告の規制に関する特定商取引法では、これに違反した場合には罰則も定められています。

丈夫だと思ってやったら、大丈夫だと言われてやったら、実は法律違反だったということにならないよう、条文や関係法令などを丁寧に読み込み、各自きちんとした法律知識を身に付けておく必要があるでしょう。

法律知りませんでした。」は理由にはなりません。

 

とりわけ、FAX送信の相手方(=受信者)が、「個人」か、「企業」「法人」「事業者」かで異なった扱いになるのかどうかについては、現在相反する考え方があるようです。

それは、今般のFAX広告規制の法律が、ある業種においては死活問題にもなってしまうため、この部分は社会的な影響が大きいからです。

平成29.12.1以降、FAXDMをはじめとするFAX広告をされる方は、すべての見解を吟味し、

どれが最も論理的で根拠明確に映ったか、

どれに一番説得力があると感じたか、

どの見解が正しいと思ったか、

等をよくよく検証され、その上で何を信じるべきか、そして最終的にFAX広告をやるのかやらないのかは、すべて自己責任となります。

大切なことは、他人が言ったことを鵜呑みにするのではなくて、自分の頭で考えてみることです

自分を守ることができるのは自分自身に他なりません。他人は助けてはくれません。

ある解釈や主張をする場合には、それを裏付ける法的根拠が必要であり(条文や関係法令、裁判例など。但し、FAX広告規制に全く関係のない的外れの条文等は論外です。)、それがないにもかかわらず、自分に都合のいいように勝手に解釈したり、そうあって欲しいという希望的観測によって法律解釈をしていくことは避けておいたほうがよいでしょう。

いま一度、自分が思うところの解釈が、法律のどこにそれを裏付ける規定や根拠があるのかの原点に立ち返る必要があるでしょう。

行政庁一職員の見解なるものをもって、それが法律上の根拠になり得るはずがないのです(もっとも、その職員の見解自体、その信憑性についても、いつ、誰の、どのような発言なのかについてもよくご確認下さい。)。

 

< 「消費者」の法的解釈について >

消費者庁取引対策課では、平成29年11月、今般の特定商取引法に関して、

 「平成28年改正特定商取引について」と題する資料をHP上に掲載しています。

そこには、通信販売のファクシミリ広告の送信について請求や承諾をしていない消費者に対するファクシミリ広告の送信を原則禁止(オプトイン規制)と表記されています。

この「消費者」については条文には書いていない文言ですが、特定商取引法が消費者保護を目的としている趣旨を考えれば当然のことといえます。当たり前だからわざわざ書いていないのです。


ここで大きな問題となるのは、何をもって「消費者」というのかという点です。

消費者契約法第2条第1項では、「消費者」の定義についてきちんと書かれています。

但し同項では、「この法律において」消費者とはとあり、あくまで消費者契約法という法律の枠内においての定義になります。

一方、FAX広告の規制に関する法律は特定商取引法であり、「この法律(=消費者契約法)」ではないため、消費者契約法上の消費者の定義がそのまま適用されるものではありません。

この部分を混同してものを考えていると、誤った法律解釈に陥りがちなので注意が必要です

法律家は、こういった条文上の細かい文言をきちんと気にして読んでいくのですが、一般の方はごちゃ混ぜで読んでしまうため、法律の解釈を誤るのです。

特に、FAX代行業者などが主張する法的根拠として消費者契約法2条1項を挙げているようですが、上記のとおり、これは的外れの条文に基づいた法律解釈であって、裁判では全く通用しないことでしょう。

また、行政庁一職員の見解なるものをもって、それが法律上の根拠になり得るはずがないのは前述のとおりです。

特定商取引法においての「消費者性」の判断については、過去に、26条1項1号(適用除外)に関連した上記裁判例の他にもたくさんの裁判例があります。

これは、特定商取引法では「消費者」についての明確な定義が条文にないため、過去に様々なケースにおいてこの部分が争われてきているということです。そして、

特定商取引法における「消費者」の解釈については、各事案ごとに、当事者の状況、取引形態の状況等を総合的に考慮のうえ、個別に判断されてきているのがこれまでの裁判例です。

そしてその判断基準は、上記のとおり、相手方にとって「営業のため」若しくは「営業として」の「取引」なのか否かということです。

このことは、少なくとも消費者契約法における「消費者」の定義が、そのまま特定商取引法にも適用されるものではないということを示しています。なぜなら、もしそのまま適用されるのであれば、それで解決、裁判で争う余地がないからです。

加えて、もしそのまま適用されるのであれば、上記消費者庁次長の通達も説明がつかなくなってしまいます。

ですから、「特定商取引法」における「消費者」とは何を指すのかということが問題になってくるのです。

 

私の所見は、特定商取引法の条文条文の趣旨、これまでの裁判例を根拠として考えていくもので、上記記載のとおり、特定商取引法における「消費者」の法的解釈については、相手方にとって「営業のため」もしくは「営業として」 の「取引」に至っているのか否かをもって「消費者」性を判断していく、というものです。

すなわち、「営業のため」若しくは「営業として」取引を行う(行った)者は、もはや「消費者」として法の保護には値せず(特商法26条1項1号の適用除外)、それ以外は消費者として特定商取引法による保護を受けるということです。

もっとも、 FAXDMの送受信については、そもそも「取引」に至っている実態がありませんから、その営業性の有無を検討するまでもなく、特商法26条1項1号が適用される余地はないいうことです。 

しかしながら、やはりこれには異なった見解、即ち、“個人は消費者であり、企業や法人は一律に消費者ではない”という見解もあるようです。この見解は、特商法26条1項1号による適用除外の帰趨が相手方の属性によって決するというものです。もっとも、この「属性」によってすみ分けをしていくという見解については、法的にどのような根拠に基づいているのかが判然としません。ただなんとなく「消費者」という言葉のイメージでとらえているようにも思えます。

 

法律の解釈というのは、条文があって、その条文が存在している趣旨があって、その趣旨に照らして結論が導かれていきます。

FAX広告規制に関する法律の解釈については、現在、上記のようにいろいろな見解があり、いったい何が本当なのか?、何を信じればよいのか?、と混乱をしている方、不安を感じている方も多いと思います。このようなことから、

FAX規制に関するの違法性の判断については、弁護士等の法律家へご相談をされることを強くお薦めします。

法律家は、法律の読み方というのをきちんと心得ているはずです。

また、規制に利害関係がありませんから、曇りのない目で法律を眺め、第三者的な立場で適切な法律解釈を行っていくことでしょう。 

自分を守るためには、自分自身が正しい法律知識と見識を持つことしかありません。

 

その上で、今後FAX広告をされる方は、すべての見解をよく検証され、どのような見解を信じご自身の中で採用していくのかについては、ご自身の頭の中でよく考えて行動されてみてください。

広く国民の中で、「FAX広告」とは何ぞや、問題の所存は何なのか等について大いに議論が進み、少しでも世の中が良い方向へ向かっていければ、それはそれで良いことだと思います。

  

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司法書士・特定行政書士  五十嵐 正 敏

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