起きて半畳 寝て一畳

生きていると様々な「物」(モノ)を持ってしまいがちです。

そして無自覚に油断していると、モノは無限に増えていきます。

反比例して、人生の時間は着実に減っていきます。

モノはお金で買えますが、時間はお金で買えません。

部屋の中を見回してみても、たくさんのモノで溢れかえっていませんか?

必要なモノもあれば、まったく使ってないモノ、もはや必要ではないモノもたくさんあります。

これは「モノ」に限らず、人間関係においても同様といえるでしょう。携帯のアドレス帳にたくさんの名前が登録されていたところで、実際のところ、今はもう必要でない「人」も多いものです。

多くのモノや人間関係を持つことで充実感を得る人がいる一方で、「持たない」ことの有益性が見直されてきているようです。

断捨離やミニマリストといった行動様式が注目されています。

 

私も昔から「持たない」ことを心がけていて、とにかく使わないもの、必要でないものは率先して捨てちゃうようにしています。

「それ、本当に必要なもの?」と自分自身に問いかけてみると、本当に必要なものはそう多くはありません。

モノより時間を大切にしたいので、モノは必要な分だけあればそれでよいと思っています。

いつか必要になるときがくるかも知れない、の「いつか」はほとんど来ません。

この「いつか」のために窮屈な生活を強いられるのは割に合わないので、将来その「いつか」が来たら、その時に買えばよいと思って捨ててしまいます。

 

車も、流行や高級車とかにはまったく興味がありません。

今乗っているのは8年落ちのニッサンの大衆車です。故障もなくちゃんと走りますからそれで十分です。

テレビをだらだらと見ていると3,4時間がすぐに経ってしまいます。

またもや無為な時間を消費してまったな・・・、暗澹な気持ちになるのが嫌で、テレビを見るのもやめてしまいました。

世情はネットのサイトで確認していますから、最小限のことは承知しています。

「情報」も最小限で足りる、というところがミソです。

そのようにしてどんどん捨てていくうちに、我が家のリビングはとてもスッキリしました。(→写真はうちのリビングで、モノがないため解放感◎です。)

我が家的には、窓から見える山々や樹々の風景があれば十分です。

家の西側が檜林となっていて、この林がサイコーです。

四季はもちろん、毎日、日の出から日の入りまで、さまざまな素顔を見せてくれるので心が癒されます。

うちに「あるもの」は、

注がれる陽光、流れる雲、樹々の彩、鳥や蜩(ひぐらし)の声、振り子時計のコチコチ、庭の花々、蝋梅の香り(真冬時)、檜林からの木漏れ日、炒った珈琲とお香の香り(このお香は結構高いものです。)、月明かり、鮮やかな北斗七星、そして静寂と漆黒の闇、といったところです。

 

起きて半畳 寝て一畳 ということばがあります。

これは、人間一人に必要なスペースは、起きている時は半畳、寝ている時には一畳分で足りるということです。

まさにそのとおりですね。

禅寺の修行道場で修業する修行僧を雲水と呼びますが、雲水に与えられる生活上のスペースも一畳分です。この一畳の中で寝起きをし、座禅をし、食事をするのです。

それで十分、ちゃんと生きていけます。何も困りません。                   

 

「起きて半畳 寝て一畳」は、言い換えると「足るを知る」という禅語に通じます。

見かけや外観はあくまで作り物です。

モノ、カネ、地位、アドレス帳の登録数、etc…、これらは人の評価や人生の価値とは無関係です。

つまらない見栄やプライドは、自分自身をスポイルするだけでなんの役にも立ちません。

ならばそんなものは即捨てる。

捨ててしまえ。

 

モノがなくても豊かに生きていくことができます。

本当に必要なものだけを大切にし、身の丈にあった暮らしで丁寧に生きる。

少ないモノでセンスよく生きる。

そんな生き方の選択もイイと思います。

 

以下、亡 中村 哲 医師のことばです。

人間にとって本当に必要なものは、そう多くはない。
少なくとも私は「カネさえあれば幸せになる」という迷信、「武力さえあれば身が守れる」とういう妄信からは自由である。
何が真実で何が不要なのか、何が人として最低限共有できるものなのか、目を凝らして見つめ、健全な感性と自然との関係を回復することである。

戦後60年、自分はその時代の精神的気流の中で生きてきた。
しかし、変わらぬものは変わらない。
江戸時代も、縄文の昔もそうであったろう。
いたずらに時流に流されて大切なものを見失い、進歩という名の呪文に束縛され、生命を粗末にしてはならない。

今大人たちが唱える「改革」や「進歩」の実態は、宙に縄をかけてそれをよじ登ろうとする魔術師に似ている。
だまされてはいけない。
「王様は裸だ」と叫んだ者は、見栄や先入観、利害関係から自由な子供であった。
それを次世代に期待する。

(出典:NHK知るを楽しむ アフガン・命の水を求めて 中村哲、2006 日本放送出版協会 135頁)

生前の中村医師からは、豪邸も高級車もブランド品も、およそイメージできません。

実際、それらとは無縁の人生を歩まれた方でした。

無駄口はたたかず、寡黙に「実行」を実践されていました。

だから奥底からカッコイイのです。

人間の真のカッコよさは、物でも金でもない。

「生きざま」です。

そのことを中村医師は証明してくれたように思います。

単なる成金に成り下がって闊歩していても、傍から見ると「みっともない」だけです。

 

何が真実で何が不要なのか、目を凝らして見つめる必要がある。 

亡くなる13年前の言葉ですが、今思うと、次世代の若者たちへの切実なる遺言であったようにも思えます。

令和2年師走 (令和3年文月 追記)

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